【こんな映画でした】627.[テラビシアにかける橋]
2020年 8月19日 (水曜) [テラビシアにかける橋](2007年 BRIDGE TO TERABITHIA 95分 アメリカ)
ガボア・クスポ監督作品。初めて。主役レスリーはアナソフィア・ロブで、撮影当時(2006年)11歳くらいか。しっかりしている。すでに[チャーリーとチョコレート工場](2005)で観ている。ジェス役は撮影当時14歳のジョシュ・ハッチャーソンで、初めて。いずれも良いキャスティングだった。
映画でも終わり近くは、レスリーの死が原作通りに描かれていて、その後のシーンは一体どうするのだろうと思いつつ観た。結論から言うと、「死」ということの重大さ、それは観客にとってのそれだが、それを映画の終わりまでに緩和させて、観客をして穏やかな気持で映画館を出られるように、との配慮で作られているようだ。ある種のハッピーエンドである。
そのためにも『ナルニア国物語』のことが出てくるように、原作からはかけ離れてファンタスティックに「テラビシア王国」のシーンを描いている。ラストシーンで架けられた橋を妹のメイベルと渡って、王国に入っていくところなどがそうだ。(なお映画の中で、メイベルなどは「テラビティア」と発音している。)
*
ジェスが後悔したことは、音楽のエドマンズ先生と美術館へ行った時のこと。一瞬、レスリーも一緒にと思いつきながらも、憬れの先生と二人きりで、との思いに負けてしまい誘わなかったのだ。
もしレスリーを誘っていたら、彼女は事故死することはなかったのに、と。原作ではサラリと触れられているだけだが、映画では別のシーンが設定されていて、ジェスが自分の責任だと父親に言いつのり、そうではない、と慰められている。
*
2020年 8月14日 (金曜) 『テラビシアにかける橋』(キャサリン・パターソン 偕成社 1981年)
映画の原作ということで、まず読んでみた。2019年 2月に読んだ『ガラスの家族』同様、キャサリン・パターソンのもの。原題はこれも引っ掛かってしまうのだが、「BRIDGE TO TERABITHIA」で1977年の著作。実話に基づく面があるとのこと。
児童文学では、特にそうだと思うが、主人公が死んでしまうようなものは受け入れ難いだろう。そんな中で、「死」を扱うのはたとえ実際にあったことを念頭においてのこととはいえ、なかなか大変なことだったろう。
それもわずかに10才の女の子と男の子の話なのだ。大人のもの、たとえば映画[ある愛の詩]でもそうだが、主人公の死は辛いものだ。まして、まだ子どもたちのそれは。
しかしこの小説は、人生においては避けられない事故で、若くして死ぬということがあるという、その現実から目を逸らさせずに、いかに立ち直って残された者が、その後の人生を生きていくかということを知らせたかったのだろう。
死んでいった子どもたちはもちろん、残された子どもたちにとっても、それはそれは辛いものだ。しかしこういった現実にいまだ直面していない子どもたちに、知らしめておくことは大事なことの一つだ。
翻訳というか、その表記については困惑させられた。つまり漢字を使えないからということで、結構ひらがな表記なのだ。だから一度読んだだけで分からずに、読み返したこともある。また言葉の意味が取れず時間が掛かったことも。これらはすべて漢字表記でひらがなで振り仮名を振っておけばすむことなのに。
ジェシーはこのさきどうなるのか、なんて考えたこともなかった。生まれてはじめて、朝目がさめたとき、たのしみにしているものがあるようになったのだ。レスリーは友人以上のものだった。言ってみれば自分の分身、自分より感動的な分身であり――テラビシアと、その先にあるすべての世界へつれていってくれる道だった。(P.98)
【これは単純な淡い恋心というだけではないだろう。自分にとって大事な人・存在と出会えたことの喜びであろう。】
あの丘をおりて、森のほうへむかうだけで、もうなにかあたたかいものが、ジェシーのからだのなかを流れはじめる。そして川床と山りんごの木のロープに近づけば近づけば近づくほど、心臓がどきどきしてくる。ロープのはしをつかみ、えいっとばかりむこうの堤にむけてふり、そっと足を地につけると、その神秘の国におり立ったジェシーは、ふだんよりずっと背が高く、ずっと力があって、ずっと頭もよくなっているのだった。(P.98)
【これは現実にあった場所だが、そうでなくても空想上でもこのような場所を持てることは幸せなことだ。】