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【こんな映画でした】616.[沈黙]

2023年 9月 4日(月曜) [沈黙](1963年 TYSTNADEN スウェーデン 94分)

 イングマール・ベルイマン監督作品。英語字幕版。姉のエスターをイングリッド・チューリン、撮影当時36歳。妹のアンナをグンネル・リンドブロム、撮影当時30歳。肉感的な魅力を持つ女性。アンナの息子ヨハン(10歳くらい)が、いわば狂言回しとなっている。

 あと登場人物は、ホテルの老齢の使用人の男性、カフェの中年男性(アンナに誘われてホテルに来る)、そして宿泊客の小人の一座の人たち。アイテムとしては、オープニングシーンでの汽車のコンパートメント、列車で運ばれていく戦車とおぼしきシルエット(これはヨハンが見ている)、雑踏の街路を行くロバと荷車、また深夜、街路を行く戦車。

 ある種不気味なホテルの廊下をヨハンがうろうろする。母親アンナはホテルに居るのに耐えきれず、町中へ。エスターは体調が悪く、ずっとホテルの室内に居る。翻訳の仕事をしたり、ストレスあるいは欲求不満からお酒をがぶ飲みする。

 オープニングシーンからしてアンナという女性の性向は、内側へではなく外側に向かっているのが分かる。それが何かはいずれ分かる仕組みになっている。一方、エスターの性向は常に内向きで、心の中での葛藤がすごいのであろう、時にアンナに対して爆発することになる、いずれ。

 アンナの息子ヨハンは、母親とその姉との人間関係をどの程度理解しているのか分からない。中庸・中立の立場なのかもしれない。一人遊びの中で、おもちゃのピストルを取り出して、大人たちにいたずらをしたりしている。

 あとで解説を読んでいくと、このピストルといい、戦車といい、いずれも先端がとんがっている。つまり男性性器を象徴しているのかもしれない。

 この解説というのは、日本の監督・新藤兼人の文章で、「<沈黙>のベルイマン」という論文で、『世界の映画作家9 イングマール・ベルイマン編』(1971年 キネマ旬報社)に掲載されている。徹底的に性的な分析である。「女」・「女性」というものは、こういうものである。そんな具合で、女性を愛しているからこそ、徹底的に女性をいじめる、といった表現があった。

 だからエスターがホテルのベッドで飲酒したり、さらに自慰にふけり興奮していく様が描かれてある、とはっきり説明してあった。そして妹アンナに関しては、男性との性交を強く望む、これは欲求不満なのか、うまくいかなかった夫婦生活に対するものなのか、はたまた死んでほしいと思うくらいに憎む姉エスターに対する仕返し的な行為なのか。

 そもそもベルイマン監督はこの作品についてどう語っているのか。前掲書所収の「ベルイマン全自作を語る」によると。

 「私はこの映画で、これまでの自分固有の映画の撮り方とも断絶し、まったく別の道を進み始めたのだ。なお、「沈黙」という題名は、神の沈黙であり、否定の徴(しるし)を意味するものである。」

 前段については、今の私には分からない。問題は後段である。やはり「神」の「沈黙」だというのだ。つまり彼女たちの行為・行動について、神は黙して語らず、つまり沈黙であり無言であるというのだ。ただそれは肯定的な態度でのそれではなく、「否定的」なものであるとベルイマンは言うのだ。

 ということは、彼ベルイマンは、神の存在を肯定していたということになるのだろうか。それとも従来、私が感じていたように「神」というものは存在せず、だから彼女たちのような「神をも恐れぬ」行為・行動も自然に平然と行われてしまうのだ、と慨嘆しているのだろうか。

 最近になって原題の英語「silence」を「沈黙」と訳するのが最適訳なのかどうか、少し疑問を持つようになった。というのも『字通』によると、「沈黙」の意味として一言「無言」とあったからだ。私には沈黙よりも、この無言の方が分かりよい。沈黙というのは、静かにしているといった語感が私にはあり、それは消極的な状態のような気がする。ところが無言というのは、逆に積極的な状態だと思う。自らの意思で、無言であるということなのだ。受け身でもなく消極的な状態でもない。おそらく神の沈黙も消極的な状態ではなく、積極的に話さない・無言であるということではないか。そんなことを今、考えている。

 このDVDに収録されていたベルイマンのインタビューを観た。数分のものだが、前掲の「ベルイマン全自作を語る」の前段についてヒントになることを言っている。
(インタビューアー)「How many lines of dialogue does it have?」に対して。
(ベルイマン)「There's a scene in it that I regret, one I don't like. I wanted to make a film without dialogue. I had so many films with so much talking in them that I wanted to make a film, a true "cinematograh" where the image would play the leading role.」(スウェーデン語の英語訳)

 つまり会話なしで映画を作ることをやってみたかったということだろう。たしかにこの[沈黙]には会話が少ない。というか、異国の地での列車と町とホテルが舞台となっているので、そこでは何がしゃべられていようが、それは単なる音でしかない。会話ではない。主たる登場人物である姉妹と妹の息子の三人の間でもほとんど会話らしいものはない。それでも映画として成立していると言うことだ。ベルイマンはもっと徹底して、一切の会話(セリフ)を省きたかったのだろう。

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