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【こんな映画でした】1027.[ストーカー](1979年)

2019年10月30日 (水曜) [ストーカー](1979年 STALKER СТАЛКЕР 161分 ソ連)

 辻邦生の『私の映画手帖』に紹介されてあった映画。全八作しかないアンドレイ・タルコフスキー監督のもの。

 長い、しかも延々と何のことなのか不分明なまま映像が流れていく。観ていくしかない。そしてようやく第一部が一時間ほどで終わり、少しずつ何かが見えてくることに。それでも漠としているのだが。

 ラストの方で原子力発電所のような風景があった。この映画が作られたときは、すでにチェルノブイリ原子力発電所は稼動中。そこでの事故は1986年のことなので、事故は関係しないだろう。

 敢えて言えば、「ゾーン」には放射能をからめせているような気もする。何にせよ「ゾーン」のような存在というか、場所というかが在ることによって、少なくとも主人公(アレクサンドル・カイダノフスキー)は良かったと思い、それを維持・継続されることを願っているようだ。

 次のようなセリフがあった。
「私と同じように痛めつけられた人をここに連れてきて、助けることもできます。希望を与えるんです。人助けできるのは幸せです。他には何も要りません」(134分~)

 この定職もないどちらかというと世間的には無能と思われる主人公だが、彼について妻は最後の方でカメラ目線で次のように話す。

「母は言いました。”ストーカーよ、呪われた永遠の囚人よ”(中略)生活に苦しみがなかったら味気ないでしょう。苦しみがなければ幸せもないでしょうし、希望もありませんから。以上です」(155分~)。

 なおここでいう「ストーカー」とは、今、日本社会で使われているような意味ではなく、「水先案内人」といった意味のようだ。

 二度目は早送りで観ながら字幕を追う。まずこの主人公について、その妻は「定職について真人間になると約束したのに。(中略)今度牢に入ったら5年ではすまないわよ。最低10年よ。その頃にはゾーンも何もなくなってるわ。何もかもよ、私だってきっと死んでるわ」(11分~)。

 これに対して夫であるストーカーは、「俺にとってはどこでも牢獄だ」とこたえて、仕事のために家を出ていく。客(?)との待ち合わせ場所に向かいながら次のような独白を。

「この世界は退屈でやりきれない。テレパシーやUFOなど存在しないよ。何も存在できない。融通のきかぬ法則が存在を許さない。例外を許さない。だから、法則と呼ぶんだ」(13分~)。

 待ち合わせ場所の近くで、客の一人である作家が女性と話している。作家は、中世には「教会には神がいた」などと話し、その女性は「”ゾーンは超文明の延長だ”って」作家が言っていた、と言う(14分~)。

 この女性もゾーンに行きたいと言うが、ストーカーから拒否され、立ち去る。そして酒場でストーカーともう一人の客が初めて出会うことに。時間待ちをしている間に、次のような言葉を作家が発している。

「100年後に自分の作品が読まれないのであれば、書く意味などありませんよ」(19分~)。

 なお、驚くなかれ実は、ストーカーには名前がない。いや本当はあるはずだが、映画では紹介されない。あとの登場人物も酒場の男以外は名前がない(ストーカーが彼を名前で呼んで、家族のことを頼む、というシーンがある)。

 ストーカーの客も「教授」と「作家」ということですまされる。というか、彼らも名前を名乗ろうとしない。それはいわば下心(目的)がそれぞれにあったからだろう。

 人類が存在するのは、創造するためです。芸術作品をね。それは人間の他の活動に比べれば無欲に近い。真理の探究など意味がない。錯覚に過ぎません。(82分)

【これは監督の持論か。芸術というものは「無欲」でなくてはならない、と。世間での栄達・名誉・金を目的とするものであってはならない、と。ここでいう「真理」とは、当時の社会における独善的な思想を言うのであろうか。】

 音楽はどうです。現実と最も関係が薄いし、主義主張もなく、全く機械的な意味のない音で、連想も呼び起こしません。それなのに音楽は人の魂に直接ひびくのです。体内の何が共鳴するのでしょう? 何が単なる音のつながりを喜びに変えて、何のために私たちを感動させるのでしょうか? 誰のためでしょう? 何のためでもなく誰のためでもなく、”無欲”なのですか? そんなはずはない。すべて必ず価値を持っているはずです。価値と理由を。(90分~)

【芸術論であり、その一つの音楽論を例にしている。最初の一文は、音楽、それもクラシック音楽の場合当てはまることがある。つまり「現実」に関係なく、「機械的な意味のない音」の羅列のように聞こえるものがある(バロックや現代音楽)。「主義主張」の方は、あいにくそのための「宣伝映画」ならぬ「宣伝音楽」があるのは間違いない。

 そして作曲家たちは作曲に際し、残念なことにたいていの場合は「価値と理由」とを意識・自覚している。それはまた演奏者にあっても、否定できないだろう。「無欲」で臨むことなどもともと至難の業なのだ。】

 世の中は不条理なことだらけだ。どうにかできると考える方が誤りですよ(120分~)

【この人生観・価値観は、洋の東西を問わないようだ。日蓮も「良からんは不思議、悪からんは一定」と。ただ、だからといって世の不条理なことを容認するということではない。あくまでも現状認識だ。】

 人は過去を思うとき、より善良になります。ひたすら信じてください(125分~)
【そんなものかもしれないが。】

(129分~)
(教授) ここは誰も幸せになどしない。悪用されるばかりだ。それを防ごうとこれを作ったんだ。だが、その後、ゾーンを残そうという意見が出た。自然が与えた奇跡かも知れないし、希望を残しておこうということになった。......彼らの暴走を防ぐには破壊しなくてはならない。......あらゆる無頼の徒にこの病巣が開放されているかぎり、眠りも安らぎもない。それともゾーンが自衛してくれるかね。

(ストーカー) お気の毒、苦労性ですな。......なぜです? 希望を失ってもいいんですか? 世間に希望は残されてません。ここだけが希望を抱ける場所なのです。あなた方も来た。どうして破壊するんですか?

(作家) やかましい! 正体は分かっているぞ。同情するふりをして他人の不幸をあざけっている。それで稼いでいる。ここでは貴様は王だし、神だからな。汚らわしい偽善者め、他人の命をもてあそぶとは。ストーカーはなぜ自分で部屋に入らない? なぜか? 秘密の権力を楽しんでいるからだ。さぞ楽しいだろうよ。

(ストーカー) それは違う、違います。ストーカーは自己利益を目的にしてはいけないのです。......確かに私はできそこないです。世間では何もできません。妻も幸せにできず、友だちもありません。ただ私にはここがある。奪わないでください、私からゾーンを。ここがすべてなのです。私の幸福も自由も尊厳も全部あるんです。私と同じように痛めつけられた人をここに連れてきて、助けることもできます。希望を与えるんです。私にはできる。人助けできるのは幸せです。他には何も要りません。

(作家) そうかもしれない。だがやはり貴様は正気じゃないな。本当は理解していないんだろ。なぜヤマアラシは首を吊った? 

(ストーカー) 我欲のためにゾーンに入ったからです。だから弟を肉挽き機で。

(作家) だがなぜ自殺した? 弟を取り戻しにくればよかったのに。取り乱したのか?

(ストーカー) そうしたかったでしょうが...分かりません。

(作家) ここでかなう望みとは、無意識のものなんだよ。さっき自分で言っただろ、一番切実な夢がかなうのだと。自分でも気付かない本性が表れるんだ。ジカブラスは我欲に負けたのではない。弟を返してくれと哀願したのにね。ゾーンが彼に与えたのは大金だったのだ。そんな自分の本性を突きつけられ、良心や心の痛みは己の本質でないと悟り、彼は首を吊ったんだ。私は部屋に入らない。自分の本性の腐肉など欲しくないし、他人にも見せたくない。首を吊りたくもない。自分の家で飲んだくれているほうがましだよ。こんな人間を連れてくるとは、人を見る目がないな。

【教授の言う「これを作ったんだ」という「これ」とは、爆弾のこと。自己を知る、ということは辛いことだ。善良な人間だと自覚していたのに、いざという時にその化けの皮がはがされてしまう。ここではその偽善性に絶望して、一人の男が自殺したというわけだ。

 ここでのストーカーの弁舌によって、教授は理解・共感したのか、その爆弾を壊し、ゾーンを破壊することを止める。ゾーンという場所の存在意義を、少なくともストーカーにとっての存在理由に共感を覚えたからかもしれない。かくして彼ら三人は、誰も「部屋」に入ることなく、もとの酒場に戻ってくる。そこに妻がストーカーを迎えに来て、家へ帰る。ラストシーンはその娘がテーブルの横で本(詩?)を読んでいる。テーブル上のグラスが揺れ動いていき、一つは落下する。かすかにベートーヴェンの第九が流れ、フェードアウト。なお音楽でいうとあとボレロも少し流れていた。

 あと考えてみれば、このようにストーカーにとっては理想的な場所であるが、現実に目に見える形態としては殺伐たる荒れ果てた建物であり、常にどこからか水の滴り落ちる湿気た、とても居心地の良い場所とは私たちには思えないところなのだ。ユートピアとはいえ皮肉な対照をなしている。】

 また時間をおいて観ると、違ったものが見えてくるかもしれない。今は私の中の漠然とした想念がはっきりとしてくるかもしれない。次はいつのことになるか。

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