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【こんな映画でした】743.[軽蔑]

2020年12月 4日 (金曜) [軽蔑](1963年 LE MEPRIS IL DISPREZZO[伊] CONTEMPT[米] フランス/イタリア/アメリカ 102分)

 ジャン・ジャック・ゴダール監督作品。比較的分かりよい部類の映画。原題通りに「軽蔑」ということを描いているか。妻(ブリジット・バルドー、撮影当時29歳)の夫(ミシェル・ピコリ、撮影当時37歳)に対する軽蔑である。なおミシェル・ピコリは今年の5月、94歳で亡くなっていた。

 人が人を軽蔑するというのはどういうことか。まずその対象は、どうでもいい単に通過していくだけの人であれば、「軽蔑」というほどに積極的な意思は持ち得ないだろう。つまり自分にある程度、あるいは深く関わっている相手であるからこそ「軽蔑」が成立するのだろう。

 ではどんな時、どんなシチュエーションの時に「軽蔑」することになるのだろうか。この映画では劇作家の夫が、映画製作者に媚びを売るとまではいかなくても、ややへつらい気味に下手に出ているところか。

 具体的には、妻をその製作者の接待に当たらせるようなところだ。その製作者の家に向かう時、そのスポーツカーは二人乗りなので、妻を助手席に乗せるということ。そして夫はタクシーで後から行くというわけだ。

 ところが夫が到着するまでにはかなりの時間が掛かっているところから、妻は不信感を募らせていく。夫の弁明もあることはあったが。そして自転車で、その製作者の秘書がやって来る。

 夫の魂胆は、妻をだしにして製作者の歓心を買おうとしたのだと、妻は思う。だから遅れてやって来たのだ、と。そして妻は、夫が製作者の秘書に手を出しているところを目撃する。

 そのような経緯で家に戻ってきて、彼らの間がギクシャクしていく。夫は自ら蒔いた種なのに、嫉妬して妻を疑う。その執拗さに嫌気のした妻は、ついにもう愛していない、出ていくと宣告することに。

 最後までその関係は修復することはない。ただ置き手紙に愛しているとはあったが。その手紙とスポーツカーが事故るシーンが、カットバックで。ラストシーンはフィリッツ・ラング監督が撮影している海辺の製作者の別荘。

 映画はユリシーズの話らしいが(私は詳しくは知らない)、その一シーンを撮っているところに二人の事故死を知らされた夫は行く。ラストシーンはユリシーズの背中を撮し、左方の海へパンして終わる。

 なおこの終わりのパンするところは、溝口健二の[山椒大夫]のラストシーンのオマージュだとゴダールが言ってるそうだ(佐藤忠男『日本映画300』P.249)。

 彼ら夫婦の家の室内装飾は、白地の壁に原色のソファが並べられている。赤・青・橙色など。[気狂いピエロ](1965)を思い出す。

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