【こんな映画でした】897.[ベルリン・天使の詩]
2022年10月27日 (木曜) [ベルリン・天使の詩](1987年 DER HIMMEL UBER BERLIN THE WINGS OF DESIRE 129分 西ドイツ/フランス)
ヴィム・ヴェンダース監督作品。この映画は二回目となる。二回目でようやくだんだんと分かってきた感じ。一度目は2019年 3月 5日 (火曜)に図書館の館内で観た。あまり画質が良くなかった。今回のはさすがに手を入れられていて、ほとんどほぼ綺麗であった。
モノクロとカラーとが混じっているのも面白い。天使が天使であるかぎり「モノクロ」であり、彼が天使を辞めて人間になると「カラー」となる。この相棒同士ともいえる二人が、ともに天使であるときはモノクロ、一人が人間になると彼はカラーとなり、いま一人はモノクロのままとなる。
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オープニングシーンは原題通り「ベルリンの空」というか、空から見たベルリンの街並みを俯瞰撮影している。そしてだんだんと寄っていき、アパートの中の人や広場で遊ぶ子どもたちを映していく。
一人ひとりの心の中というか、思念が天使には手に取るように分かる。そのようにして様々な人たちを映しだし、その心の中の呻き・叫び・嘆息などを観客に提示していく。一回目に観た時は何のことか分からなかったが、今回は分かった。
要するにみんな不幸せなのだということ。それぞれの人生に大なり小なり不満を持ち、日々を鬱屈した思いで過ごしている人がほとんどだということを私たちに理解させる。その不幸な人々を天使は空高くから、あるいはその人たちのすぐ側でじっと見つめているのだ。耳をかたむけているのだ。
時にはその悩める人の肩に手を置いて、慰めと励ましの言葉を掛けるのだった。もちろん彼らには天使の手を感じることもできず、声も聞こえない。人によっては、何かしら暖かいものを心に感じ、頑張っていこうと思う人もいる。逆に慰めの言葉を掛けたにもかかわらず、まるで天使の手を振りきるように自死してしまう人もいる。さすがにこの時には天使も「ナイン!」と声を発している。英語なら「ノー!」というところだろう。
このように天使たちは、ただ見ていること・見守ることしかできない。そのようにされていることすら、本人たちは気が付くことはない。悲しい立場である。
そのように考えてみたら神や天使というのは、何と気の毒な存在であることか。もちろん彼らが私たちを温かく親身に見守る心性を持っていれば、ではあるが。そうだとすると彼らはとても精神的にタフでなければやってられないだろう。平凡な人間にはとても耐えられることではない。戦争の惨禍や奪い合い・殺し合い等を平然と見ていられるはずがない。*
ついに一人の天使が、自分も高みの見物ではなく、実体験として生きてみたいと思うことになる。決断することになる。人間になるということの大変さは、たちまちまず食べるものの獲得から始まる。それでもなお彼は人間になることを欲し、それを敢行していく。
その切っ掛けは様々であろうが、直接的に(映画では)マリオンという女性との出会いである。サーカスのブランコ乗りとしての彼女を見て、彼は決意したのであろう。彼女に限らず人は、寂しさや孤独の中に毎日を生きている。人生の目的は何か、一体何のために生きているのか等々。そんな中でも求める者は、やはり人の愛情であろう。元天使の彼もそうだ。
それを獲得するためには、まさしく人間的な様々な苦労をしていかざるを得ない。つまり人間が生きるということは、様々な苦労を一つ一つクリアして生きていくことなのだ。まさに日蓮の言う「良からんは不思議、悪からんは一定」、というのが人生なのだ。
ラストシーンは元天使の彼がマリオンとともに生きていく、というところであった。この先もどのような試練が待ちかまえているか、それは誰にも分からない。それでも二人で協力して生きていく、それが人生なのだろう。
「子どもが子どものとき」...といった哲学的な言辞が挟み込まれていて、なかなかそれをすっとは理解できないので困惑したが、大筋以上のように私は理解した。
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2022年11月 7日 (月曜) [ベルリン・天使の詩](1987年 DER HIMMEL UBER BERLIN THE WINGS OF DESIRE 129分 西ドイツ/フランス)監督による音声解説版
監督以外の役者のセリフは、字幕がないので分からないので、映像により着目できた。こんなシーンがあったのかと思うようなところも。つまり見逃していたということに、気が付く。唯一の女優マリオン役のソルヴェーグ・ドマルタン(撮影当時25歳)は、サーカスのブランコ乗りは初めてなのに、練習して吹替なしでやったとのこと。それを指導したサーカスから仕事の誘いを受けたほどに才能があったと、紹介されている。
(60分~)
子供にはプロとアマの境界線がない。当然、プロの子役もいるわけだが、映画の経験のある子供を使う時は、かえって気をもむ。....子供は生まれながらの役者だ。教えなくても大丈夫。子供がのっていて、遊びたい気持があり、カメラの前で演じることに興味を持てば、教える必要は何もない。どんな大人の役者も演技の本質を子供から学べる。
共に仕事をした俳優に、他人になることや役柄に隠れることを望んだことはない。私が求めているのは、自分をさらけ出せる俳優だ。役柄に隠れる代わりに自分をさらけ出すんだ。何も隠さずに自分自身でいてほしい。...役の陰に消えるのではなく、役の背後に現れる俳優が最高だ。
【監督の子役論・俳優論といったところか。私が観る監督には、このように考える人が多いような気がする。アメリカのアクターズ・スタジオ出身者の役者を嫌う監督でもある。私も俳優というのは、監督の意図通りに動くマリオネットの面もあるし、俳優がやる気を出して創意工夫をしていく中に、監督は新しい発見をすることもあるのだと思う。】
(93分)
私にとって白黒の映像は、私たちに人や風景や物の本質を見せてくれるものであり、うわべよりも本質を強調するものだ。天使は物事を深く見るので、白黒の世界にいる感じがしたんだ。そこから"天使"には色が見えないという発想が浮かんだ。天使は魂を見る。外観ではなく本質を見るんだ。哲学的な考え方だ。それで天使が人間になると、初めて色が分かる。
【モノクロ映画の良さというものを、あらためて認識させられた。「本質」を描き出しているということ。色彩があると、うわべだけに眼を向けてしまい、その本質に気づくことが難しくなる。
天使はどこへでも通り抜けていけるかわりに、物に触れることもできず、色も見えず、食べることもないので物の味も分からないというわけだ。具体的には珈琲とタバコを賞味するシーンがある。歩きながら何かを食べているのだが、それは何か分からなかった。】