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【こんな映画でした】632.[メイジーの瞳]

2018年11月 8日 (木曜) [メイジーの瞳](2012年 WHAT MAISIE KNEW メイジーの知ったこと(第25回東京国際映画祭) 99分 アメリカ)

 スコット・マクギー監督作品。邦題に「瞳」を入れたくなるのも分かる。ほんとに6歳の女の子の眼がクッキリと大きい。大人たちと話す時にも、その眼を目一杯開いて見つめる。そんなところからの題名だろう。

 原題からしたら、「知ったこと」でもいいけれど、「分かったこと・気が付いたこと」ということでもあるか。つまり母親の愛し方に対しての、処していき方。親ももちろん大事だが、その周りにいる大人たちも大事だということ。そんなことだろうか。

 この映画の特色として私が思うのは、長回しが少なく、短いショットが多用され、それらは決して説明的ではない。そんな映像の積み重ねがテンポ良く、内容の重さを感じさせないようにしているようだ。

 その説明的でないところが、一般の評価がやや低い理由であり(80%)、批評家のそれが高い理由であろう(86%)。*
 俳優は何と言っても主役である子役メイジー役のオナタ・アプリール。子役には大人の俳優も勝てないというところ。メイジーの良き理解者になるリンカーン役のアレキサンダー・スカルスガルドも好感が持てる。

 良いシーンの一つに、リンカーンがメイジーにちょっとした料理を作ってやった時、メイジーが食べようとしないので、どうしたのかと尋ねると、「壊したくないの」、と。皿に綺麗に盛られたその美しさをこのように表現していた。大したものだ。

 映画の基本線は、仲が悪くなり離婚に到る夫婦が、子供の親権をめぐって裁判。父親に親権が認められるが、紆余曲折。とりあえずは10日間ごとに双方の家で暮らすということに。

 そこにベビーシッターであった若い女性と、母親の知り合いの若い青年が双方の家で別々にメイジーの世話をすることに。彼らとの付き合いの中でメイジーは、両親以外にも自分を大事に思い愛してくれる存在がいることに気が付いていく。

 ラストシーンで母親が娘メイジーに、やや威圧的に対応するのだが、それにもかかわらず「私は彼ら二人と明日ボートに乗る」、という意思を表明する。幼いながらもそのように成長していっているのだ。翌日ボートに乗り込むシーンで映画は終わる。

 終わりらしい終わりはない。それは仕方がない、彼女はまだ6歳。人生はまだこれからなのだから。実母・実父と継母・継父ということになるのかもしれない。

 つまり若い二人が結ばれてメイジーを面倒見ていくのか、実の両親が離婚したまま二人で面倒見ていくのか。それは分からない。

2020年10月20日 (火曜) [メイジーの瞳](2012年 WHAT MAISIE KNEW メイジーの知ったこと(第25回東京国際映画祭) 99分 アメリカ)

 2回目。2018年11月 8日 (木曜)に初めて映画館で観ているようだが、どうも記憶が曖昧だ。それはさておき、大半のシーンは覚えているはずがないが、いくつか印象に残っていたシーンがあり、なぜそのシーンが記憶に残ったのかが不思議に思った。

 人の記憶の仕方というのは、分からないものだ。それにしても二回目は、よりセリフなどに注意を払うことができ、より深く理解できるようであった。やはり二回は観なければ。

 それにしても主演の6歳のメイジー役は大したものだ。いや演技というよりも、各シーンでの勝手な大人たちの言い草に対してのその都度の反応というか、受け答えが実に良い。彼女なりに最大限考え抜いての返答であり、リアクションであろう。大したものだ。

 ラストシーンはメイジーのストップモーション。身体が震えた。これもお勧めの映画だ。

 なお今回はブルーレイディスクだったので、特典映像があり本人のインタビューが少しあった。何と父方の祖母は日本人であったとのこと。それでか、鼻が少しペチャであった。そのおかげで私などには、見やすかったのかもしれない。

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