【こんな映画でした】494.[塀の中のジュリアス・シーザー]
2020年10月10日 (土曜) [塀の中のジュリアス・シーザー](2012年 CESARE DEVE MORIRE CAESAR MUST DIE イタリア 76分)
タヴィアーニ兄弟監督作品。初めて、ようやく観ることができた。他の有名な作品はなかなか手に入らないので、まずは手に入りやすかったこの作品から観ることにした。
結論から言って、これは何なのだろうということはあるが、つまり頭で分かったというわけではないのだが、ラストシーンで身体が震えた。(だから、これは良いものを持っている映画なのだ、と私の身体が言っている。)
劇が終わり、主役級の三人がそれぞれ独房に戻されるシーンが映される。その一人キャシアス役のコジーモ・レーガにはカメラが付いて一緒に監房内に入り、彼の独白を映し出す。「芸術を知った時から、この監房は牢獄になった」、と。これは強烈だ。
犯罪者として服役している人たちも皆、人間なのであるという当たり前のことを気付かせてくれる。ほんのちょっとのことで犯罪者となるかならないか、紙一重でもあるのだ。
そして長く刑務所暮らしをしていて、すっかり人間性を失ってしまっていた彼らが「芸術」というものに触れることによって、自らが「人間」であることに覚醒するのだ。それは感動的と言っていい。芸術の力と偉大さを思い知らされる。そう、人間が人間であるために「芸術」は必要なのだ。
ただこの劇の出演者たちの多くは、その後も服役したままなのであるが、一人ブルータス役のサルヴァトーレ・ストリアーノだけは、出所後、俳優になったとラストのテロップで紹介されていた。
あと思ったのは、原作のシェークスピアのことである。やはり言葉というのは凄い力を持つものだ、と。あらためてその戯曲を読んでみなくてはと思った。言葉の魅力というか、魔力は人を変えるのだ。
更生施設で演劇を取り入れるとは、さすがイタリアと言うべきなのかもしれない。