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【こんな映画でした】941.[意志の勝利]

2022年 9月10日 (土曜) [意志の勝利](1935年 TRIUMPH DES WILLENS ドイツ 109分)

 レニ・リーフェンシュタール監督作品。1934年ナチス党大会のドキュメンタリーということ。ただ観ていれば分かるが、相当に演出されている。つまりその時にその場で撮ったものだけではなく、おそらく後日、別に撮ったと思われるシーンやカットを挿入していると思われる。もちろんそれは劇的効果をあげるためである。仕事熱心というのは、映画としての仕上がりを上げるために、それこそ魂を悪魔に売るようなこともするのではないか。ここでは芸術のためではなく、ナチス党大会を宣揚するために。

 党大会開会式では、何人もの党幹部たちが演説をしているが、監督はそのエッセンスだけを取り出して次々と並べている。

 党大会開会式での党幹部たちの演説(抜粋)

(ディートリッヒ)報道の力というのは、真実の上に成り立つ。我々が国内と海外の報道陣に求めるのは、真実を報道するということだ。

(シュトライヒャー)自らの人種の純潔を守らない民族は滅びる!

(ライ)我々の活動の基盤となる考えはただ一つ。ドイツの労働者を謹厳で誇り高く平等な国民にすることである。

(ゲッペルス)武力によって力を得るのもいいかもしれない。だが人民の心をつかみ勝ち取る方がより好ましく喜びも大きい。

【彼らの言う「真実」を額面通りに受け取ることはできない。「真実」は、ときに「事実」ではないのだから。
 「人種の純潔」などという虚妄でしかない概念を持ちだして彼らの「民族」のアイデンティティ・優秀さを誇ろうとする。人々の愛国心を刺激する。

 また、はしなくもドイツの労働者の置かれた地位が分かろうというものだ。彼らナチス幹部たちも果たして労働者を尊重していただろうか。疑問だ。】

 ヒトラーは二回演説しているが、その一回目「ヒトラーユーゲント集会」での、時間にして映画開始47分からの4分間ほど。以下に。

 我々は一つの民族を目指す。諸君ら若者がその一つの民族となるのだ。階級や身分のない社会が目標だ。そうした考え(註・階級や身分のある社会)を許してはならない。一つになった国を見たいのだ。そのために諸君は学び、強くなるのだ。

 我々は従順な国民を求めている。諸君も従順さを学ぶのだ。平和を愛するとともに、勇敢な国民になってほしい。それゆえに平和を愛し、かつ勇敢な人間になってほしい。この国を軟弱ではなく、強固なものとしたい。そのためにも若い頃から強くなるよう鍛えねばならない。諸君は決して倒れることなく、窮乏にも耐えられるよう鍛えなければならない。

 何を創造し、何をしようとも我々は必ず死を迎える。だがドイツは諸君の中で生き続けていく。我々が力尽きた時は、諸君が旗を受け継ぐのだ。無から作り出された我々の旗を!
 それ以外の道など存在しない。諸君は我々の血肉を受け継いでいる。諸君の心には我々と同じ魂が宿っている。諸君は我々と団結する運命なのだ。いつか我々の運動による巨大な隊列がドイツ中を行進する日がくる。その時は諸君も参加するだろう。ドイツは我々の前にあり、我々の内を行進し、我々の後ろに広がるのだ!(とヒトラーは言い放って、くるりと後ろを向き、元いた位置に戻っている。劇的な演出といったところか。)

 ヒトラーの演説で分かるように、彼らはまず「民族」という概念を利用する。それも世界で最も優秀な民族だと称揚する。もちろん「民族」の概念も理想化された虚構に過ぎないのである。虚構だから利用しやすいのであろう。

 「階級や身分のない社会が目標」というのは、まさしく国家社会主義者としての面目躍如というべきだろう。しかし現実社会に「階級や身分のない社会」があるだろうか。言葉としての「階級や身分」はないとしても、実質的な「階級や身分」がない社会は実現不可能であろう。ごまかしがある。

 ついで正直な話が出てくる。「我々は従順な国民を求めている」、と言うのだ。白々しいと私は思う。「我々」とは誰を指すのか。ヒトラー個人とその周辺の権力者を言うのか、ドイツという国家を言うのか。いずれにせよ、すぐさま国民に「従順」すなわち服従を求めてくるところに、彼らの本質が現れているということだ。しかしこの演説を聞く彼ら若者はそのことに気が付いていない。

 さらに「平和を愛するとともに、勇敢な国民になってほしい」とかなり矛盾した要求を彼ら若者に突きつける。「平和」の名の下に戦争を戦うということか。そういえば「戦う」という言葉が何度も出てきている。若者たちを優秀な戦士にするためにさかんに「鍛えよ」というわけである。

 ヒトラーは彼ら若者を持ち上げる。「ドイツは諸君の中で生き続けていく」「諸君が旗を受け継ぐのだ」、と。ここで「旗」というものの果たす役割を改めて考えさせられる。国旗に始まり、ここではナチスの「党旗」である。それらが党への忠誠の証としてのシンボルとなっている。軍隊も「軍旗」である。これらの旗印の下に、彼らは喜んで国のために死んでいくのだろうか。

 このように若者はアジテーションに弱い。集団心理もあるだろう。政治家はこの若者のエネルギーと純粋さを利用する。そしてその彼らへの報酬は、「戦死」という名の「名誉」ということになる。

 この映画とは直接の関係はないが、トーマス・マンが次のように言っている。
 戦争とはあらゆる残忍下劣な、文化や思想とは絶対に相容れないような民族的要素の凱歌であり、エゴイズムと腐敗堕落と劣悪さとの乱痴気騒ぎである。『ドイツとドイツ人』(『古典のことば』(岩波文庫 P.169))

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