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”努力” ”幸せ” ”自己投資”? -目標を曖昧にさせる言葉についてのもやもや-

 はじめまして、あるいはお久しぶりです。約間円です。

 今回は限りなく雑談に近い、「目標を曖昧にさせる言葉」についてのもやもやを吐き出したい! という内容です。

 タイトルに挙げた”努力” ”幸せ” ”自己投資”という三つの言葉。
 つまりこれ、私があんまり好きじゃない言葉なんですよね。まぁこの三つの言葉が大好き、というのはスピリチュアルとか自己啓発とかの界隈だとは思うので、雰囲気的にこの羅列だと苦手な方は多いかもしれませんが。

 理由はまさに「目標を曖昧にさせる言葉」だから。
 どういうことか。

『なんとなーくいい結果』を目指してしまう

 一番わかりやすいのは多分『自己投資』だと思います。

 自己投資。これ、使われ方は要するに「セミナーや書籍などの勉強費・参加費」のことなんですよね。自己啓発界隈で「高いセミナーも自分の価値を高める自己投資だから、将来返ってくる」という話で。

 「金持ち父さん貧乏父さんの話のように、お金持ちや成功者はみんな先行投資をしている」……と続くわけです。

 でもそれ、ちょっと違うでしょう。
 一回5万円-10万円くらいの高いセミナーも結局言ってることはそこらの書店で1000円で読める内容だったりします。中古書ならamazonで300円とか。

 「ただの勉強代」だったら誰でもそっちの方を選ぶと思うんですよ。資格勉強とか無駄にお金かけたくないし、「結局自分が勉強するか次第だから、高いセミナーに何万円も払う意味ない」と普通に言えます。

 だから、セミナーを開催する側が『自己投資』なんて普通使わない言葉を使おうとするんです。その方が格好良いから。それなら何万円も費やす価値があると思わせられるから。変われると思えるから。

 まぁ思い込みの力というのはありますから、300円の中古書より10万円のセミナーの方が変われることはあるのかもしれません。それで結果的に成功するなら、その人にとってはいいんでしょうけれど。ジムに高いお金を払ってダイエットが成功する人と同じで。

 でもつまり、結局それ詐欺の世界観から永遠に抜け出せない人みたいな感じですよね。マルチ商法の次の売り子になるだけ。自分もセミナーを『自己投資』と呼んで誰かに売りつける成功者(?)になっていく。

 そういうのはちょっとなぁ、とゲンナリする気分になります。

 (TwitterのDMで勧誘っぽく声を掛けてきた方が珍しくコピペやbotじゃなさそうだったのでTLを見に行ったら『自己投資』という言葉が並んでいたのがこの記事のきっかけ)

 過去の凄い偉人というのは現場や大学の講義や書籍から学んでいるのであって、無暗に高い妙なセミナーに通ったりはしていませんし。投資というのは明確なリターンがある、例えば人気の自動車メーカーが製造工場を作るようなことであって。「成長した(気分になれる)から投資のリターンだ」なんていうのは、じゃあもうディズニーランドに行ったって自己投資じゃないですか。

 「自分にお金をかけること」を全部自己投資なんて呼んでいたら、その目的も本当に効果がある最適な選択肢なのかも曖昧になりますよね。

 勉強代、健康管理費、設備投資、交通費。

 そんな無味乾燥な簿記に書く項目名みたいなものまで分解して初めて目的に対して意味のあるコストになるし、本当は効率的なそれが「格好悪い」と感じてしまうのならそれこそ思い込みに縋ってしまっている証拠じゃないかなぁ、と思います。

”努力”や”幸せ”も同じように曖昧な言葉

 "自己投資"が直近で違和感のあった言葉ですが、以前から”努力”や”幸せ”についても同じように感じていました。

 最近は「努力も才能」「努力すれば何でもできるわけじゃない」なんて言ったりしますよね。
 ただこれ、そもそもじゃあ『努力ってナニ?』と首を傾げたくなります。

 陸上選手が毎日五十キロ走る。
 これはわかりやすく努力かもしれません。そして普通の人にはできないので、「努力も才能、無理」となります。

 じゃあ陸上選手が毎日水泳をするのは努力でしょうか。
 全身の筋肉をバランスよく鍛えるために、取り入れている選手はいると伺います。しかし毎日水泳だけをしていれば、当然泳ぐのが上手くなるだけで速い走り方は身に着かないでしょう。

 でも、毎日二十キロ泳いでいればそれ自体は大変な努力です。
 「間違った努力」なんて言われ方をするかもしれませんが……じゃあ「間違った努力と正しい努力って何なのよ」と思いますし、だったら最初から努力なんて曖昧な言葉を使うからいけないのでは? と。

 それに、どこからが努力なのか、という話もあります。
 毎日五十キロ走るのは厳しい。なら毎日一キロは。それも人によっては厳しい。じゃあ毎日百メートル走るのは? あるいは、十メートル走るのは。

 それはもう努力だと感じる人はいなくなるでしょう。(闘病中のリハビリなら別ですが)

 「努力をするのは才能」なら、そもそも努力だと感じないレベルから始めればいい。それを継続して十年やり続けるうちにだんだんとレベルを上げていけば、少なくともやらない場合より遥かにレベルは上がっている。

 「努力」なんて曖昧な言葉を使わず、「毎日百メートル走る」と言えば、「毎日百メートル走るのは才能」なんて誰が言えるでしょう。
 曖昧な言葉を使っているから目標が見えなくなるし、だから挫折するわけで。

 逆に諦める時も「今日から毎日五十キロ走らないと年齢制限までにプロにはなれないと明確にわかった。他の方法は一切ない。そしてそれは自分で何度か試したが無理だった。なので諦める」と具体化すればいい。
 それなら、決断する理由も明確です。次に別のことをやる時にも何ができればいいのかを考える時にも活かせます。

 才能という言葉は優しくて、努力という言葉は厳しいものです。
 だから「できなかったのは才能がなかったから」という優しい慰めが心を癒すことはあるでしょう。それ自体はいいと思います。

 ただ、努力という今まさに目標を目指そうとする人がただ「努力するんだ」と曖昧な方針にしてしまうのは……むしろ逃げなのではないかと。何より、実現の可能性をわざわざ下げる悪手だと思います。

 『幸せ』も同じですね。
 一生幸せになりたいと言ってる人は、これはもう自ら不幸を呼んでいるようなものでしょう。幸せという言葉は世界一多くの人を不幸にした言葉じゃないでしょうか?

 幸せなんていうのは本質的にただの気分であって、目指すようなものではないのでは。そんな価値があるんでしょうか?

 「弁護士になりたい」「宇宙飛行士になりたい」「お嫁さん・お婿さんになりたい」なら目指せます。どんなに難しくても、明確な計画が立てられますし、諦める理由も明確です。

 だけど幸せなんて曖昧なものを追い続けていれば、何を手に入れても「私は幸せなのか?」なんて答えは永遠に出ないでしょう。出ても、それは気分が良い時ってだけですし。

 なので私自身は幸せかどうかなんてどうでもいいから、自分らしく生きられるかの方が大事だと思ってはいます。「自分らしさ」というものを明確に自分の中で定義して、それに沿って生きていればいい。それなら後悔もないし結果的に「幸せな気分」は後からついてきます、オマケで。

 そういう意味では「努力」も「幸せ」も、それに「自己投資」だって自分の中でしっかりと意味を定義して、具体的な計画の一部にしていけば問題はないと言えるかもしれませんが。

 世の中ではあまりにこれらの言葉は、曖昧なまま都合よく、あるいは都合悪く使われすぎでは? と思う機会が多々あります。

 他人に攻撃する時もよくないですが、曖昧な言葉が自分にぶっ刺さっている方も見かけます。それは、あまりにもったいないし意味がないでしょう。

 なので今回吐きたかった、叫びたかった私の本音は以下。

 曖昧な言葉を(歌詞とかポエム以外で)使うな! 具体的にしろ!! お前が不幸になるぞー!!!!!


 以上! 
 はー、もやもやを具体的な言葉にしたのでスッキリした。


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