小説はこの世から消えるのかもしれない、ということについて。
どうも、約間円です。
あるいは別の名義を名乗っているかもしれません。
ともあれ、最近しみじみと感じつつあることについて。
「小説はこの世から消えるのかもしれない」ということについて、です。
1.小説が大好きだけれど
私は小説が好きです。世界にある創作表現媒体の中で、最も好きなのが小説です。漫画もゲームもアニメも映画も好きですが、やはり小説の没入感、言葉で表現された想像力で入り込んでいく無限の世界が一番好きです。
書く側も読む側も、物心ついた頃からずっとやり続けてきました。
生きる理由になるくらい大好きな小説も、いくつもあります。
だから決してそれが素晴らしいことではないと思いますし、できれば消えて欲しくないと思います。もっと言えば、本当の意味で完全消滅するとまでは思いません。私のように、あるいはもっと小説そのものが好きな人は少なからずいるはずですから。「歴史的な文化」としてなら、一部で残るでしょう。
ただ、絶望感というよりはしみじみと、夕陽が沈むのを見るように「ああ、小説が消えてしまう可能性はあるな」と思うに至りました。
小説が消えてなくなるなんて絶対にない、と思っていたこれまでに対して、「この道を進んだ場合は小説はなくなってしまう可能性が十分にある」という道を見つけてしまった感覚でした。
2.何故これまで、小説は消えないと思っていたのか
小説がなぜ消えてしまうのかを考えるためには、「なぜ小説は消えないと思っていたのか」を考える必要があります。
これまで人間の長い歴史の中で、様々なものが消えていきました。
例えば『稲こき』。収穫した稲穂を脱穀して、殻を剥いて調理して食べられるお米にする作業用の道具です。
叩いて脱穀する古代の『唐棹(からさお)』に始まり、江戸時代初期の『扱箸(こきばし)』、江戸後期の『千歯扱き(せんばこき)』と、稲こきはより便利な道具と形式に進化し続けました。現代では電動式脱穀機により、脱穀はすぐに終わる作業になりました。
一見何も悪いことはないように思えますが、しかしそれぞれの時代、稲こき一つとっても何百年と続く文化でした。扱箸による脱穀は面倒だからこそ重要な仕事で、便利な千歯扱きが開発されたことで「後家倒し」と呼ばれるほど、その仕事を失った人々の生活は変わらざるを得ませんでした。
稲こきと同じように、世界のあらゆるものは歴史と共に進化し、古い道具と形式から新しい道具と形式へと移り変わっていきました。
その点で言うと、「小説が消える」というのは実は当たり前のことです。漢詩や短歌、和歌、川柳、民謡。かつて日本で隆盛を誇ったほとんどすべての文化は「歴史的な文化」だけに残り、表舞台からは消えていきました。
『小説』というのは文明開化の後に西洋から入ってきた文化です。「文字で短編から長編までの物語を書き、一冊の本にする。口に出して読むための詩ではなく、書籍そのものを作品とする」。
これは高度な印刷技術が生まれた時代に生まれた、新しい文化でした。
実際、戦後文学からライトノベルに至るまで、日本で好まれる主流の小説ジャンルも何度も大きく変化し続けています。そして小説の道具=媒体そのものも大きく変わりました。
インターネットです。新たな時代の新たな道具として、情報は紙の時代から電子情報の時代に進化しました。
恐らくですが、仮にインターネットが「絵しか扱えない」道具であれば、小説は早々に姿を消していたことでしょう。
奇妙な想定のようですが、これはさほどおかしな話ではありません。実際、初期のインターネットは性能の限界から画像を大量に通信できませんでした。「Web漫画」という文化が発展していったのは回線速度の向上と密接な関係があります。また、動画文化の次に今ではリアルタイム配信文化が人気を博していますが、これはまさに回線速度という道具の向上で可能になった最新の文化だからと言えます。文化は、道具の後を追うようです。
そして2022年の現代。私達が「小説が消えるかもしれない」と感じる一番の理由は出版不況でしょう。これはまさに紙の時代からインターネットの時代へと、道具の主流が完全な移行を終えようとしているためです。書店などの、紙の文化は消えつつあります。「歴史的文化としての保護の努力」が必要なほどに。
では逆に「小説は消えないだろう」と思う理由は何でしょうか。そう。インターネット上のWeb小説です。文字媒体の小説は紙でも小説でも問題ないので、インターネットの時代でも主流でいられます。
Web小説の最大の強みは『数』です。日本中の日本語を書ける一億何千万人という人が作品を提供できます。実のところ紙の時代もそれは似ていて、和歌や俳句の時代に「高貴な身分かつ才能を発揮できる人」だけが人気を博していたのに対し、出版社が生まれてそこに持ち込めばどんな身分でも出版ができるようになったことで『数』が供給されました。
「より面白いものを、よりたくさん読める」。シンプルにその点で優れている方が生き残る、というのは文化的生存競争に対するわかりやすい解釈の一つかなと思います。
Web漫画は、どんなに天才でも絵を描くのには時間がかかります。Youtubeも、どんなに天才でも面白い動画に編集するには時間がかかります。(あのヒカキン氏でさえ五分の動画を作るのに四時間以上かかるそうで、五分のために十時間以上かかることもあるそうです)
Web小説は早い人なら読者が読む時間の倍程度の時間で書くことができるので、『数』の点では動画や漫画よりも優れていたわけです。
ただ、人間は五感で情報を得る生き物です。「文字を読む」という能力は後天的に備わったもので、視覚の一部だけしか使わないやり方です。同じ時間で得られる『情報量』という点では、小説は動画や漫画に適いません。
実際、昔は「小説は一冊買ったら長く楽しめる」と高評価だったのが、今では「小説は一冊読むのに時間がかかる。漫画はすぐに読めるから良い」と逆転しています。インターネットの時代にそれぞれの『数』が増えたことで、読む側に時間が足りなくなっています。
それでも拮抗していたのは、「漫画を描く」のが大変だったからです。Web小説原作の漫画が増えたのも同じ理由で、漫画の『数』を増やすためでした。『数』と『情報量』。それぞれの得意分野でバランスが取れていたから、これまで小説が消えることはありませんでした。
けれど、その状況は変わりつつあります。
3.何故、小説は消えるのか
前述した通り、時代を変えるのは道具の進化です。
では、小説が消える理由になるのはどんな道具、どんな時代でしょうか?
昨今、Twitterなどで非常に話題になっているサービスがあります。一つ目は「Midjourney」。二つ目は「Stable Diffusion」。
どちらも画像生成AIサービスです。
街角で撮ったような極めてリアルな写真や、トップクラスのプロでも描くのに一週間以上かかるような絵、イラストを数分で何枚でも生成することができます。
ほとんど同時期に登場した別のサービスであり、ここからは今後こうした画像生成AIが様々な人の手で開発され、短い間に飛躍的に進歩し続けることが予想できます。
インターネットの時代の次はAIの時代。
それ自体は、自動運転など様々な分野でAIという言葉を聞くことからも疑いの余地はないでしょう。つまり、あくまでインターネットという「場」を道具として人間が様々なものを作っていた時代が終わり、インターネットという「場」の中でAIという道具が様々なものを作る時代が始まっていきます。
これは別にAIが意思を持つとかいうのとは別の話で、あくまで「人間がAIを使って何かをするようになる」話です。しかしそれでさえ、時代は大きく変わるでしょう。
千歯こきが稲こきの仕事の一部を奪ったように、画像生成AIが絵を描く仕事を奪う。それは今も様々な場所で言われていることで、ある程度は事実だと思います。特に産業用のイラストはAIが描く時代が来るでしょう。
ですがそれだけではなく、例えば「粟よりも白米の方が美味しいけれど、白米の『数』がないから粟を食べていた」時代がありました。美味しさを『情報量』だとすれば、まさに同じ話です。
そして粟は稲の生産量=『数』が増加したことで、姿を消しました。
現在、Web小説の読者は既に「手軽に読めるから」というユーザーが大多数を占めています。人気の小説投稿サイトは手軽さを優先した構造です。
小腹が空いた時にはコンビニやマックの昼食でも十分満足できるように、『暇潰し』という理由でなら「手軽さ」を求めるのは普通のことです。さらに言えば書く側にとってもWeb小説は「手軽に書けるから」どの分野より多くの人が集まっています。
しかし画像生成AIの登場で、絵を描くことは一気に手軽な行為になろうとしつつあります。『数』と『情報量』の法則に従えば、大多数の作者と読者はAIを使って漫画を描き、それを読むようになるでしょう。さらに未来では動画生成AIが登場し、それを観るようになるのかもしれません。
現在でも既に、ユーザーの数は「動画>漫画>小説」で固定されつつあります。AIの時代に求められる才能とは「AIを使って面白いものを作る才能」であり、その前では小説と漫画の『数』の差、手軽さの差はありません。
となれば残るのは『情報量』の差だけです。
書籍としての小説文化が明治に誕生してから、二百五十年余り。小説という文化が主流の座を譲り渡す――商業出版の世界では既にほとんど実現しているそんな結末が、インターネット上でも実現するのかもしれません。
十年ほど前、学生時代に「電子書籍か、紙の本か」というアンケートをクラスで取った時、ほとんどすべての生徒が「紙の本」を選びました。その頃に「書店が消滅するかも」などと言う人はほとんどいませんでした。
しかし現在、「放っておいてもどんな書店も消えてなくなることはない」と断言できる人などいないでしょう。
4.何故、小説が消えることを考えたのか。
そもそもこんな疑問を考えるようになったのは、私が小説家を目指し続けてきたからでした。
小説家とは、言うなれば「小説を書いてお金を得る人」です。特にそれのみを生活の収入源にできれば理想的です。だから子供の頃からその方法を考え続けてきました。
私が子供の頃、小説家になるには新人賞を受賞すれば十分でした。もちろん難関ですが、そのハードルを越えた先では順風満帆、とは言わないまでもしばらくは「小説家」であり続けることができました。実際、まず私はそれを目指し続け、受賞し、出版に至ることができました。
しかし大人になる頃、つまり私が「小説家」になった頃には新人賞を受賞した人のほとんどが「小説家」であり続けることはできなくなっていました。賞は賞でしかなく、今や新人賞は入り口ではなく一時の栄光に過ぎませんでした。
代わりに隆盛を誇っていたのはWeb小説の世界です。そこには大勢の人が集まり、賑やかで、漫画やアニメといったメディアミックス文化もそこから生まれていました。新人賞の頃とは文化の内容は変わっていましたが、「少なくともそこなら小説家であり続けられるんだろう」と私は思いました。
しかし最近のとあるエッセイで、Web小説からの書籍化作家の方がこんなことを書いていました。「書籍化は小説家として一生やっていけるものではない。長く書きたいなら新人賞を目指すべき」。書籍化とは一時の栄光なので、それを目指すより趣味で書くべきだと。
そしてカクヨムにて数千以上の評価を受ける大人気作家を見ていても、何作かは書籍化をできることも、できないこともある状況を改めて知りました。私は気付きました。新人賞からでもWeb小説からでも、小説は売れないのだと。
Webで人気を得れば売れるというのは幻想で、ごく一部の例外を除けば、そもそも紙で売ることが前提の小説は売れない。『情報量』に勝る漫画や動画に人は流れ、『手軽な暇潰し』として『数』があるからWeb小説が人気なだけなのだと。
同じ『手軽な暇潰し』という条件さえ揃えば別にWeb小説である必要はない。事実、たった数年でWeb小説書きのアカウントは活動停止をすることがほとんどで、小説という形式そのものに深い思い入れのある人はわずかなのだと。
そして考えた先で、『手軽さ』=『数』を漫画や動画が満たす条件が今回の内容でした。AIという道具が手軽にしてくれるなら、最初から手軽な代わりに『情報量』の少ない小説を選ぶ理由など、大多数の主流の人々にとってはない。
小説が主流であり続ける理由は、どこにもありませんでした。
一つだけある可能性として、私はSF好きですから、将来人間が電脳化する未来を考えています。誰もがAIと同じくらい頭が良くなれば、AIの登場で生まれた『手軽さ』は失われます。
一秒で百万字が読める読者に読ませるのなら、絵や動画よりも結局低コストな小説の方が『数』を提供できるからです。しかしこれもあまりに遠い未来で、予測する意味はほとんどないでしょう。それが百年後でも千年後でも、一度は小説が消えるという事実には変わりありません。
5.小説が消えた先の未来で。
私は「どうして自分の好きなものが世の中から廃れるのか」が、わかりませんでした。それは面白くて、とてつもなく価値があって、世界で一番優れている最高なものなのだから、評価されるべきだと思っていました。
だからそれを理解するために、多様性や経営学やマーケティングを学びました。「自分の好きなものはこんなに素晴らしいのだから、適切な伝え方、広め方さえできれば世界に評価されるはず」だと思いました。
ある意味では、今もそれは間違ってはいないと思います。優れた物語は形式を変えても優れたままです。そして優れた製品でも広告の出し方や戦略、売り出し方で評価はまったく変わってきます。
違ったのは、形式に対する評価だけでした。
「自分の好きな物語」は素晴らしかったのでしょう。ただ、「小説という形式」は道具の進化が生んだ時代によって評価される、一時代の文化に過ぎませんでした。小説は廃れ、そして廃れたまま消えていくことが自然な結末で、それは間違ったものではないから取り戻せるものでもありませんでした。
私は物語が好きです。そして小説が好きです。
私はモノ作りが好きです。クリエイターとして今後も生きていきます。
人気作家の乙一氏はライトノベルが好きで作家になり、一般文芸の世界で活躍し、ライトノベルの人気を取り戻すことを夢見ていました。しかし後年、「ライトノベルのままでは手にとってもらえない客層がいるという事実を覆せなかったという点では、ある種の敗北である」と語っています。
多数の著作、人気作、漫画化や映画化を果たした乙一氏でさえ、「形式」には抗えませんでした。形式とは時代が決めるもので、個人が変えられるものではないのでしょう。スティーブ・ジョブズが世界に広めたスマートフォンは世界の形式を変えた道具ですが、同時期に既に同様の製品が開発されていたことからも、ジョブズは「時代が求める道具と形式を世界に気付かせる」のが上手かったのでしょう。(事実、「ユーザー自身が気付いていない欲求を気付かせる」ことが極意であると生前の彼は語っています)
故に私が、そしてすべてのクリエイターが選べる道は三つだけなのでしょう。
1.大きな評価を求めず、趣味として続けていくのか。
2.「歴史的文化」となった形式の第一人者を目指すのか。
3.新たな時代の新たな形式に、自分を適応させていくのか。
私が憧れたのは、紙の時代に新人賞を取り、華々しく輝く人気作家達でした。自分が好きだと思ったもの、素晴らしいと思ったものをできるだけ多くの人に伝え、心を動かすこと。そのためなら人生を懸けられると今でも思っています。
言い換えれば、「わかる人にだけわかればいい」とはどうしても思えない。それは私が何かを作ろうとする原動力とは異なるからです。
例え死ぬまで何の成果も出なかったとしても、最大の成果を目指し続けたなら納得できる。一定の成果が出たとしても、目指すハードルを下げてしまうならそれは自分が考えるモノ作りの熱意とは違ってしまう。
それは「何を選んで、何のためにモノを作り、表現するか」という原点で、だから私が私自身として選ぶのは三番目の生き方でした。
私は人生の一番大きな目標を小説にすることを、辞めました。
6.小説が消えて、何かが生まれるということ。
生きたい理由も、作る楽しさも、変化に前向きでありたいという考え方も、全部小説から教わったことです。だからきっと、これは残念なことに悲劇ですらないのでしょう。
小説から形作られた自分が、小説の未来について考え、自分なりの結論を決めた。自分が読んだ小説と、それが素晴らしかったという気持ちは何も変わらないのだから、そこには何も矛盾はないのでしょう。
親が死んでも子が生き続けるように、小説から生み出された自分が次の何かを生み出すのは、むしろ自然なことなのでしょう。
寂しさはあります。それは消えないし、思い出すように触れることはこれからもあると思います。それでもようやく、一つの答えが出せました。
出版不況ということ、世の中が変わっていくということ。
それと向き合って、自分なりの答えを出して生きていくということ。
自分の好きなものの「形式」が消えていく中で、何を選ぶかということ。
私は小説から教わった通りに人生に最大限の成果を目指し続けようと思います。小説が消えていくとしても、そこから貰った大切なものは死ぬまで消えることはないのだと証明するために。
変化していく時代で、自分なりの好きを貫いて生きるために。
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