死ぬが、生きている
最近ずっと、というか随分前からずっと考え続けていることに、最近また向き合うことになった。
こんなツイートをした。
ウイルス関連のニュース映像が世界中から流れ、たくさんの死が、データや動画やアナウンスで伝え続けられ、不安を煽るような空気が、テレビの向こう側に充満していた、そんな時期だったからかもしれない。
生きていることの対極が死なのではなくて、死を含んだ生を意識することが「生きる」ことだ。
大学生の時、祖母が死んだ。90近くの大往生だった。おばあちゃん子だった私は、紫色に髪を染めた大阪らしいばあちゃんだった彼女が大好きだった。亡くなったという知らせは、当時一人暮らしをしていた東京のアパートで聞いたから、新幹線に乗って大阪に戻ったときには、すでに通夜を準備していた近所の公民館のようなところで、祖母は棺の中にすっかり静かにおさまっていた。ショックはあったけど、めちゃくちゃ悲しいわけではなく、ただもう二度と話ができないから寂しいなと思ったのをおぼえている。
まだ弔問客も来る前の、シーンと静かな公民館に、簡素な白黒の縞々の幕が張られ、同じように色の無い花輪が並ぶ真ん中に、小柄だった祖母が入った小さな棺が置かれていた。安物のスリッパを履いてペタペタと棺に近づいていくときに見えたその景色は、開店祝いのパチンコ屋の店頭をモノクローム写真で撮影したみたいだなと思った。ショートホープという強いタバコを一日に何箱も開けるヘビースモーカーで、大阪の下町に生きた祖母に、どこか似合ったセッティングだと思った。
白木の棺の、頭の部分に観音開きの扉がくっついていて、うながされるままにその扉をそっと開けた。きれいに死化粧された祖母の顔が、当たり前だがそこにあった。眠っているように目を閉じて、じっとそこに横たわっている彼女の顔をしばらくずっと見つめていた。「死んだように眠る」ってよく聞くけど、結局こういうことだなとか考えながら、いや逆に眠るように死んでる、とか思いながら、それでもずっと見ていた。ステレオタイプな言い方だけど、あまりに安らかなので今にも起き出しそうな気が、ほんとにしたもんだから。ずっと見ていたんだけど、ドリフのコントみたいに彼女が起き出すことは無く、ただそこに死んで、じっと止まっていた。そのとき、突然なにかがハッキリとわかった。
死ぬということは、彼女にとっての「時間」が、そこで完全に停止して終了したということだ。
私は無意識に、自分の腕にはめていた時計の文字盤を見た。秒針がかすかな音を立てながら動いているのが見えた。まだ生きている私の時計の針は動き続けているが、彼女の人生の時間は、彼女が死んだその瞬間で完全に止まったのだ。ただ、動いていた時間が、彼女にとってはそこで終わったという、そういうことだ。駅のホームで見送る誰かを置いて発車した列車の窓から振り返ったときに見える景色のように、ホームに立ちすくんだままどんどん遠くなっていく彼女から離れて、私の時間は進み続けていた。
生と死を分けるもの、それはただそこにある時間の有無だ。
死の原理に、私は気づき、同時にそのとき、生の意味に通じるなにかのヒントを受け取っていたのだと今は思う。それからずっと生きていることの意味を考えていた。
彼女の生はそこで終わったが、私の生は続き、私と過ごした間の私から見た彼女は私の記憶の中で、私が死ぬまで存在し続ける。彼女自身にとっては、ただ時間が止まっただけだが、彼女の人生は、私の人生と合流してまだ終わっていないのだとも言える。
つまり人は、死んでも他人の中で生き続けることができるし、誰かと関わり続ける中で迎える死が、人生にとっての意味なんじゃないかと思っている。ウイルスに感染して亡くなり、再感染のリスクがあるからと誰にも看取られないたくさんの棺が淡々と埋められていくアメリカのどこかの空撮の映像を見ていて、そのことを強烈に思い出した。自分の死を、自分の時間の続きを、彼らは誰かに託せたのだろうか?
人間はいつか死ぬ。早いか遅いかの違いはあれど、いつか必ず死ぬ。もし自分が死に向かって衰弱していると感じたときに、まだ心を許せる誰かと関わり続けているのだろうか? できることなら、そのとき私はホームの上から、去っていく列車の窓からこちらを見ながら遠ざかっていく誰かを見送りながらゆっくりと曖昧に死にたい、いや生きたいと思う。