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年間第25主日(B年)の説教

マルコ9章30~37節

◆説教の本文

〇 共観福音書 (マタイ・マルコ・ルカ)には、イエスが三度、ご自分の受難と十字架を予告するという記事があります。マルコでは、8:31 (前の主日に朗読)、 9:31 (今日の朗読)、10:33 (主日の朗読には含まれない)です。

三度、同じエピソードを繰り返すというのは御伽話のお約束ですが、三つの福音書が全て、三度繰り返しているのは意味のあることだと思います。
”3”はシンボリックな数字です。折に触れ何度も話された、ということだと思います。

私の神学生時代の指導司祭は、同じことを繰り返し教えることのできる人でした。これは指導者にとって非常に重要な資質だと思います。自分が若い人を指導する立場になって、本当にそう思います。多くの指導者はブリリアントな教えを与えることができますが、繰り返す忍耐と謙遜を持っていないのです。謙遜というのは、同じことを繰り返すと軽視されがちだからです。

ある東京教区のベテラン司祭が言っていたことです。「 あー、うちの神父さん、また同じことを言ってる。聞き飽きたよ 」と言われるぐらいでないと、 本物の主任司祭とは言えないではない。
主任司祭は普通、5年か6年で交代するのが普通ですが、一人の主任司祭が本当に伝えたいと思うことは一つか二つしかないのではないでしょうか。
その一つか二つの大事なことを、小教区の民に繰り返し話す。親しみを込めて小馬鹿にされることもありますが、繰り返し、繰り返し教え続ける。それが主任司祭に必要な資質です。資質というより、「情熱」といった方がいいかもしれません。

小馬鹿にされても、それにめげずに教え続けていると、教えられたことはどこか心に残ります。留まります。

イエスの弟子たちが「イエス様また同じこと言ってるよ」と笑ったとは、私たちには想像しにくいのですが、弟子というものは先生をバカにするものです。イエス様も例外ではなかったかもしれません。

〇 繰り返し教えられたことが役に立つのは、その教えに対応する現実が、自分の生活の中に姿を見せ始めた時です。「 ああ、これが先生の言っておられたことなのか」。そしてその言葉を深く考え始める。

イエスが十字架上で息を引き取られた時、はじめて、「人の子は人々の手に引き渡され、殺される」と、主が言われたのはこのことだったのかと、分かり始めたのでしょう。そして、「 三日後に復活する」と言われたことの意味も。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。・・・そして、三日の後に復活することになっている。」 (第一の受難予告)

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。・・・殺されて三日の後に復活する。」( 第ニの受難予告)

「今、私たちはエルサレムに登っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。・・・そして、人の子は三日の後に復活する。」 (第三の受難予告)
                                                                                         (了)