7月9日(土) 週日 説教
マタイ10章24~33節
「だれでも人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」
福音宣教というほどのことはできませんが、私が心がけていることは、食堂などでする食前の祈りです。今は、ステップハウスの昼食ですね。
小さい十字架を切って、こそこそ祈ることはしない。しかし、大きな十字架を切って、これ見よがしに祈ることもしない。十字架の大きさは、私の肩幅です。つまり、等身大です。等身大でしか、祈ることはできない。祈りの言葉は小さい声でする。人の心に留まるのは、言葉ではなく、振る舞いであるからです。動作はゆったりと、落ち着いたものであるべきです。
若い人の集まりでこれを進めたら、「人の迷惑になることをしちゃいけない」と言った人がいました。人の迷惑になるわけはないとは思うんですが、 その場で違和感を与える存在になることはいけないという意識があるのではないかと思います。場違いな ことをしてはいけないというのは、日本文化の深層にあるものですから手強いですが、これくらいの気まずさは乗り越えなければ、殉教などという話をするのはおこがましいでしょう。周りの人は気が付かないか、気がついても 「オッ」という表情をするだけです。視野の片隅には入っているが、気がつかないふりをしている人も多いでしょう。
私たちは、日本の社会でキリスト教信仰について話すことは容易ではありません。しかし、キリスト教、あるいは宗教を真面目にやっている人も世の中にはいるのだということを知らせるのは福音宣教の 一歩です。
なお、信徒の方々と一緒に食事をする場合は微妙です。そんな目立つことはしてほしくないと思う人もいそうです 。しかし、神父が「さて、祈らせていただきましょうか」と言って祈り始めると、だいたい信徒の方々は喜ぶと思います。信徒の方々は神父や修道者に祈りのリーダーシップを期待していると思います。