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年間第14主日(A)年の説教
◆ 説教の本文
「宝塚黙想の家」の門を入ったところに、両手を広げたイエス様の像があります。その台座にはこう書いてあります。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」
キリスト教信仰(イエスご自身)は、人生の重荷に打ちひしがれた人に、安らぎをもたらすものとして、まず提示されています。実際、信仰に入らない人でも、人生の労苦から一時なりとも、逃れるために、教会や黙想の家を訪れる人はいます。一時でも安らげる空間があることは、人間にとって大事なことで、小教区や黙想の家の聖堂が、ご近所の方々にとって、そういう場所になることを願っています。
しかし、安らぎだけをキリスト教信仰に求める人は、私たちと良い友人にはなれるかも知れませんが、キリスト者にはならないような気がします。他にも、安らぎを約束するところはあるからです。実際、そういう人は間もなく教会を訪れるのを止めてしまうようです。
極めてぼんやりとしたものであっても、自分の周囲をちょっとは良くしたいという願いも合わせ持つ者が洗礼を受けて、キリスト者になるのではないでしょうか。
世界を平和にしたいとか、アフガニスタンに行って井戸を掘るとか、気宇壮大な志ではなくても、身の周り、半径50メートルだけでも、自分がキリスト教信仰を持つことによって、少し平和な場所になることを願って、洗礼を受けるのではないでしょうか。
私は世界を改革するというような大きな志は持たない人間です。自分一身が安らぎに得ることに関心がありました。その私でも、身の周りが平和でないことに悩み、自分のキリスト教信仰を持つことによって、少しでも良くなればいいとは思っていました。
しかし、キリスト者として生活はじめると、すぐに問題はそんなに簡単でないことが分かってきました。人が生きることは難しい。人が一緒に生きることは、とてつもなく難しい。私は修道院と呼ばれるところで暮らしていますが、自分の周囲、50メートルを平和にすることだけでも難しいことです。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 」
人間が一緒に生きることの難しさがわかるにつれて、イエスが共に、難しさを担ってくださることの有り難さがわかってきました。
ここでいう軽い軛は、当時のパレスチナの農業を背景にしています。土を耕す鋤という道具があります。それを牛に繋ぐのですが、軛という道具を牛の肩にかけます。この軛は2頭分がセットになっています。つまり、二頭の軛は繋がっています。この軛がうまくかけられて、2頭の牛が呼吸を合わせて引くことができれば、鋤は軽く感じらるそうです。
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われています。
一頭の牛はイエス様です。もう一頭は私です。共に生きることの重荷が重くなくなることはありません。キリスト教信仰はそれを約束しません。ただ、負いやすくなるのです。イエス様と一緒に軛を負えば、楽しくなることだってあるのです。互いの呼吸が次第に合ってくる喜びですね。
自分たちなりに努力しているつもりでも、状況はなかなか良くなりません。変化は見えません。私たちはそれに失望します。こりゃ駄目だと絶望的になるかもしれません。
しかし、軛をイエス様と一緒に負う喜びが、私たちにあるなら、ノロノロとした歩みであっても、鋤を引き続けることができるでしょう。そうなってはじめて、焦りではなく、神における安らぎ(serenity)を得ることができるでしょう。そして、私たちのつたない努力は小さな実りを結びはじめるのでしょう。
「そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。」