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復活節第2主日から4/30 説教

4月24日(復活節第二主日)

復活の八日間は重要である。典礼は経験そのものである。考察ではない。大祝日の典礼で、 私たちの体と靈は すぐには気づかないことも 経験している。復活の 8日間は その経験していることを、 少しでも意識(言葉)のレベルに持ってくるためにあると考えることができる。体験は言葉になって、生き方を変えるものとなる。

「あなたがたに平和があるように」。イエスのこの言葉を典礼で聴いたとき、たしかにある平和があった。

私たちには平和がある。少なくとも、私は今年、いままでにない平和の中にある。たしかに、今の私には義務というほどのプレッシャーがない。義務の板挟みがないことが、私の感じている平和の理由の一部ではある。しかし、それだけではない。心を悩ませることがないだけで、この平和はない。イエスのもたらしてくださる、人の思いを越えたとき、平和である。

しかし、この平和に影をおとすものがある。たとえば、ウクライナの戦争。私たちは今日にも悲惨な出来事の知らせを聞かなければならないかもしれない。私たちだけが平和でいいのかという後ろめたさがある。

いいのだ!私たちは、自分たちに実現している平和があるなら、それを体、全体で享受すべきなのです。身近なところに、その平和を広げるべきです。それが今日、私が言いたいことです。

私たちは主イエスの平和のうちに、あっていいのです。 後ろめたさを 解消する為に、 自分の心を暗くすることは誰のためにもなりません。本当の自分の心の促しに従うべきです。衝動的に祈りに精を出すことは 偽りの自分です。 徹夜で祈りたいと意欲を自分の中に感ずる人はそうすれば良いのです。 しかし、そうでない人は、 折に触れて 射祷をすることを勧めます。 本当に 寄付をしたい人は、 全財産の 半分を寄付することも すればいいのです。 しかし、そこまで の気持ちがない 人は カリタスジャパンに 一定の金額を 寄付すれば良いのです。

あるアメリカの作家がこう言っているそうです。「長い時間をかけて、少しずつ育てていくべき美しい感情が、今既に自分にあるように思いこむ。そのように振る舞う。それをセンチメンタルと呼ぶのだ。」

センチメンタルな人は 偽りの人間です。 偽りの人から 本当の平和 は生まれません 。 今の 本当の自分のしたい ことをしながら、強い 美しい感情が 育つのを待てば良いと思います。 その種は私たちの中に既にあり、育つのを待っています。それを信じるべきなのです。そして今は、 イエスキリストが与えてくださる恵みを 平和を受けるべきです。 そして自分の周囲にその平和を 広げるべきです。

4月25日(聖マルコの祝日)

マルコ16.5ー20
福音書は単にイエズスの言行録というだけではない 。 独特のジャンルである。 マルコは福音書というジァンルを創造した人である。福音書という文書、そして、ミサという典礼の形がなければ、キリスト教信仰は今の形を早くに失っていただろう。 四方八方に それぞれの人が それぞれの枝を伸ばして、 何が中心かがわからなくなっただろう。

福音書というジャンルには 、 受難と死に関する部分が多い。 ある人は 長い受難物語に脚注がついたのが 福音書 だと言っている。 しかし、ただそれを 熱心に語っているというだけではない。受難と死の意味を考えさせる ように語られている。

「イエスは自ら死を選んだのではない、殺されたのだ」 と解放の神学者たちは強調する。 確かに 死ぬために生きたかのように言うのは 不健全であろう。 しかし、 良い事を一生懸命にやっていたら 、権力者に憎まれて 殺された だけのように言うのは 、イエズスの死の独自の意義を見失うことになる。

聖堂の中央に 十字架を掲げる ことを止めてはならない。 復活のイエス像を掲げることには 反対する。

4月26日(ヨハネ3. 7ー15)

ニコデモは信仰まで行かなかった。好意あるシンパにとどまった。その好意は行動に表れている。7章、19章。

彼に人間的な欠陥があったとは言えないだろう。風は思いのままに吹く。何処から来て、何処へ行くのか、誰も知らない。

私たちは信仰に至った。私たちが良い人間であったからではない。恵みによる。その恵みを、恵みを受けなかった人たちに返さなければならない。

4月27日( ヨハネ3.16ー21)

ニコデモとの出会いは 曖昧なものに終わったけれど、 新約聖書で最も有名な フレーズのひとつをを生み出した 。 「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」これは新約の福音の要約と言っていいくらいです。このフレーズは 四旬節によく読まれるので、 『お与えになったほどに」は、「 十字架につけるために」お与えになったという意味に読まれがちです。 しかし、 受肉の神秘全体のことを言っているものとして読まれるべきです。

「与える」ということは、これは君の好きなようにしていいよという含蓄がある。 私が期待するように 大事に取り扱いなさいというなら、 真の贈り物とは言えない。たとえば、説教は贈り物である。自分にとって切実なことを語り、これなら聴く人の心に刺さると期待した説教が、無関心で迎えられることは珍しくない。しかし、愛のある説教者は、その失望と怒りを乗り越えて、語り続ける。
  確かに期待はある。 期待しない人は、 自分のやってることに本気でない。 しかし期待通りになるとは限らない。無視され、誤解されることが多い。それでも与え 続けるところに愛がある。

十字架の死が、とりあえず世の応答だった。しかし、唯一の応答ではなかった。そして、最後の応答ではなかった。応答は続いている。 私たちはその応答の一部である。

4月28日 (ヨハネ3.31ー36)

ニコデモの姿はいつの間にか、フェードアウトして、福音書記者のモノローグに移っていく。福音書記者ヨハネよりずっと権威のある方が語っているようだ。
 天からのことを語るものと、地のことを語るものとの厳しい断絶が強調される。福音宣教の立場からは、わからない人にはどうしたってわからないのだということになって、悲観的になるようだ。が、わかる人にはわかるのだと考えると、楽観的になれる。
 私の 物の言い方が悪かったので 、あの人は教会に来なくなってしまった と悩むことがあります。 しかしあの人が 天下の声を聞く人であれば、 私の言動によって 左右されないでしょう。
宣教には細心の言葉遣いと 同時に、 おおらかな心が必要です 。ヨハネ福音書は 全人類に 及ぶ宣教を 目指していますが 、 そこに至る過程では、天からの声を聞く人はきっと 信仰に近づいてくるのだというおおらかな心が必要です。

4月29日(ヨハネ6.1ー15)

バンが増えるエビソードは4つの福音書すべてに現れて、教会が大事にしてきたものです。これがミサの形を表しているということを皆さんはずっと聞いてこられたと思います。そして、ミサとは私たちの人生の頂点であり、また明日を生きる力の源泉である、と。

キリスト者はイエスの生きかたに倣うように勧められていますが、私たちはパンを増やすことなんかできない。しかし、イエスの一つ一つの動作、振る舞いを真似ることはできます。
 まず、パンを手に取る。それを、しばらく見つめる。これが私の人生である。70年生きてきて、人のためになりたいと思って、いろいろなことをやってきました。実は、目立ってやろうという野心に突き動かされていたことも多いでしょう。今となれば、思い違い、勘違いもあった。しかし、その結果、残ったものが私の人生です。じっとそれを見つめていると、浮かんでくる感謝です。すべてを導かれた方に感謝と賛美を捧げます。
そして、裂いて 、分け与える。 私たちは 力なきものですが、 分け与えるものがないではないのです。

4月30日(ヨハネ6.16ー21)

パンの奇跡のエピソードは四つの福音書すべてで語られますが、その雰囲気は少なからず異なります。共観福音書では、ひたすらイエスの素晴らしい力を示すハッピーな物語ですが、ヨハネ福音書では、人々がイエスを王にしようとする。これは受難につながる不吉な兆候です。
そして、素晴らしい出来事を見たはずの弟子たちは一転して、暗い空気に呑み込まれています。「弟子たちは湖畔に下りていった」、「あたりは既に暗くなっていた」は、ギリシア語で読むと、「弟子たちは暗闇の中に下りていった」というふうに読めるのだそうです。外的な状況が芳しくないから、陰鬱な気持ちになったのではなく、イエスから離れていたので次第に陰鬱になっていった。
 私たちの準管区を囲む状況は全く芳しくない。気持ちが暗くなるのは当然です。しかし、同じ暗い気持ちと言っても、状況からくるものと、自分の心、孤絶感が生み出すものがあると思います。二つは絡みあっていて、簡単に切り分けることはできないないのですが、区別はたしかにある。

ヨハネ福音書のイエスは突然姿を現す。「既に夜の明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」( 21章4節)