年間第19主日(B年)の説教
◆説教の本文
〇 [典礼暦メモ]
ヨハネ福音書の6章全体を5回の主日に分けて読む、その3回目です。
この章は非常に内容が豊富で、ポイントがたくさんあります。説教のテーマを選ぶのに迷います。
こういう時は、第一朗読(旧約聖書) が参考になります。何度か言ったことですが、年間主日はまず福音朗読が選ばれて、次に福音朗読をある一つの方向から照らす旧約朗読が選ばれるというのが原則です。今日の旧約朗読は列王記ですが、旅路の糧、つまり私たちにとってのミサという観点から福音朗読に光を当てているのです。
「私は天から降って来た生きたパンである。」(福音書)
「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」(列王記)
〇 人がどのような気持ちで人生を歩んでいるのか、自分の人生がどのように見えているのかは、なかなか他人にはわからないものだと思います。
確固とした志を持って生きているように見える人もいるし、物事にこだわらず飄々と生きているように見える人もいます。それがお芝居だと言うつもりはないのです。それはそれで本当でしょう。私にしても、自分の人生を、司祭・修道者としての理想を求めて、着実に進んでいる旅路としてイメージしていることも多いのです。
しかし、ほとんどの人にとって、人生はもっと格好の悪いものではないでしょうか。
次から次に立ち現れるトラブルや問題に対処してるうちに日々が過ぎ去っていく、と感じられる。ビジネスマンにとっても、修道者にとっても、また家庭の主婦にとっても。
あらかじめ方向を決めて歩いているつもりが、色々なトラブルにその時その時、対処してるうちに方向が変わってきたという感じがあるのではないでしょうか。
〇 「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません。」
時には、自分の対処能力を越えているかに思われる問題が現れます。誰も助けてくれそうにない。自ら命を絶つことを考える人は少ないでしょうが、黙って世界からスーっと消えたいという思いが起こることもあります。40歳以上の男性で、「この世界から静かに立ち去ることができれば」と思ったことのない人は少ないということです。
しかし、カトリック信者にはミサ、御聖体というものがあります。
彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。『起きて食べよ。』
心身ともに疲れて、投げやりになって、床についても、また、朝はミサに与り、御聖体を受けて、元気を取り戻すのです。次の日一日、一週を生きるだけの力を。
そして、一日一日、一週一週を何とか生き延びているうちに、いつか神の国に着くのです。
「エリアは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜、歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」
(了)