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年間第33主日(B年)の説教(前半)

マルコ13章24~32節

◆説教の本文

〇「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。」

〇 ベトナム戦争が本格化したのは1965年でしたが、私はその頃、中学生でした。ベトナム戦争の惨禍は新聞で大きく報道されました。また、ソンミ村で400人もの村民が虐殺された事件がありました(虐殺は他にもあります)。

中学生だった私はもちろん、ベトナム戦争に反対だったし、ソンミ村事件には怒りを覚えました。しかし、「人間の歴史」そのものには、不安や焦燥を感じていなかったと思います。こういうことは、人間の中の愚かな人々、残酷な人々のやることで、多くの人が目覚めれば、自ずと正されるはずだと思っていました。そして、良識的な人々も目覚めさせるのはそう難しくはないと思っていました。

つまり、長い目で見れば、戦争や虐殺は次第に少なくなっていくはずだとぼんやり思っていました。自分でよく考えたのちに、そういう意見を形成したわけではなく、それは当然そうなると感じていたのです。進歩主義的歴史観ですね。

考えてみると、1960年代はまだそういう信頼が世界的にあった時代なのでしょう。そして日本という国は、比較的平和だった世界でもとりわけ平和な国でした。
その安心感は、強大な力を持つアメリカ合衆国が信頼できたということが大きいと思います。ベトナム戦争はアメリカの大きな失敗だけれど、アメリカそのものには自浄能力があるという信頼は失われていなかった。 (トランプ氏が大統領選に大勝した今は、そういう信頼はもう持てませんが。)

〇 その全てに、女性の凌辱や子供の虐殺が必ず伴っています。特にユーゴスラビア内戦で起こったセルビア人による、民族浄化と称する組織的な女性への暴行凌辱は血が凍るようでした。ウクライナ戦争のロシア軍の行動でも、それが報道されています。

そして今、私たちの目の前で繰り広げられているのは、パレスチナ―イスラエルの戦争です。パレスチナでイスラエルのしていることは、人類史上最悪の出来事とは言えないでしょう。しかし、厚顔無恥ぶりでは際立っています。病院の爆撃のようなことは以前にもありましたが、ことが起こったずっと後で、そういうことがあったらしいと報道されました。そして、当事者は少なくとも言い訳(誤爆!)をしようとしました。しかし、パレスチナでは、病院爆撃、子供殺しが衆人環視の中で行われ、平然と正当化されているのです。

〇 その中で、次第に、私は「人間の歴史」への信頼を失ってきました。他人事として批判するのではなくて、自分もその人類の一部なのです。

この状況は私たち人間に「なんとかできる」はずだという人がいるのはもっともだし、またそういう声を上げる人には立派な人が多いのでしょう。
しかし私たちは、本当に人間に何とかできると思っているでしょうか。そう思わなければ事態はいよいよ絶望的になるから、無理やりにでもそう思わなければならないのではないでしょう。
バスケットボール漫画『スラムダンク』に「あきらめたら、そこで試合は終わりですよ」という名セリフがあります(安西先生)。 スポーツのような一定の短い時間で終わるものなら、自分の心をそのように励ますことに意味があるでしょう。

しかし、何十年、何百年と続く戦争の連鎖において、自分たちの心を、「なんとかできるはずだ」と自分自身で励ますことは無力だと思います。実際、 戦争や虐殺を報じる新聞やテレビの論調(アナウンサーの口調)も、ベトナム戦争当時とは違うような気がします。もちろん、現実に起こったことに対する怒りは表明されるのですが、どこか諦めたような、クールなものも感じるのです。怒る(怒ったふりをする)ことに対する疲れも感じるのです。

家庭の食卓、職場の会話でも、戦争や虐殺事件を取り上げることは少なくなっているのではないでしょうか。心を痛めていないわけではないが、「悲惨な出来事だ」「何とかしなければならない」と言葉にすることを虚しく感じているのではないでしょうか。 「人間とはこういうことをする動物だ」と、どこかで思っているのではないでしょうか。

〇 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る。」

もちろん、人間にできることはまだあるし、できることはしなければならない。個々の戦争には止めることのできるものもあるし、止めなければならない。それは当然です。

しかし、戦争と虐殺の限りない連鎖を終わらせることは、人間にはできないと思い切ることが必要ではないでしょうか。神が自ら人間の歴史に加入して、平和を実現してくださる時がきっと来る。

これが神学用語で言うところの「終末論」eschatologyというものです。

神様が最後に出てきて、全てを解決してくださるという考え方は、人間の責任の放棄、逃避(escapism)につながるのではないかと思われる方もあるでしょう。元々無責任な人間なら確かにそうなると思います。
しかし、歴史に対する責任を重んずる人ならば、論理は逆だと思います。最後がどういう結末になるかわからないなら、今努力して今の努力は無駄かもしれないと思うかもしれない。

しかし、神様が最後には責任を取ってくださる (ヤクザ用語でケツ持ち) と信じることができれば、今日、自分にできるわずかなことを成し遂げるようとする希望と勇気が生まれると思うのです。私たちは今、終末論 eschatology を必要としています。

「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
                           (了)

「読書案内」
終末論は、現代人には説明の難しいテーマです。
来住英俊 『イエスと歩め !』の第5講「イエスの再臨」で詳しい説明を試みました。カミュの『ペスト』など、文学作品も援用しながら、私にできる限り、 わかりやすく書いたつもりです。 是非入手して読んでください。