年間第31主日(C)年 説教
ルカ19章 1~10節
◆ 説教の本文
「私は財産の半分を貧しい人に施します。また、誰かから何か騙し取っていたなら、それを四倍にして返します。」
エリコはエルサレムへ上って行く道の起点にあたっています。十字架の立つ町、エルサレムに向かうイエスの旅路も最終段階に入っています。
イエスはこの町で二人の人に出会います。
一人は盲人の物乞いです(マルコの平行箇所ではバルティマイという名前が与えられています)。彼はイエスに癒された後、「神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります (ルカ 18章35~43節)。
もう一人は今日の福音の徴税人ザアカイです。福音書ではイエスは多くの人に出会って良い影響を与えたようですが、実際に生き方を変えたと書かれている人はそれほどいないのです。エリコ の盲人とザアカイはイエスによって生き方を変えられた人です。イエスの最終的な目的は、十字架につけられて死ぬことではなく、人の生き方を具体的に変貌させることです。
ザアカイの面白いところは、生き方の刷新の方針を数字で具体的に示したことです。
美輪明宏という人がいます。男性ですが女優です。風変わりな人ですが色物ではなく、テレビでよく見る人の中でもっとも本物を感じさせる一人です。人生相談をいろいろやっていて、ある相談者が 「資格を色々と取ろうとしてやってみたが駄目だった」と言っていました。それに対し、三輪氏 はこう返していました。「 何の資格をどういう目的で取ろうとしたかを具体的に言わずに、ただいろいろやってみたと言っている。そこがもうあなたはダメ。」
人生相談の回答には優しく相手の気持ちを推し量るものが多く、きっと孤独な質問者は慰めを感じるでしょう (それも新聞雑誌に載る人生相談の役割です) 。
一方、三輪氏の回答には質問者の目を開かせ、これまでの自分の生活を再考させるものがあります。ここでは、過去を反省するには具体性が必要だと言っているのです 。
ザアカイは回心して、将来の生活方針を立てるにあたって具体性を持っていました。半分、四倍という具体的な数字を出してきました。「 できるだけ、できるときに貧しい人に施します」という曖昧な言い方ではなかったのです。彼の生活の刷新の決心が 本物であったことを伺わせます。
実を言うと、夏休みの勉強計画を立ててそれで満足してしまう児童を思わせるものがあり、ちょっと不安です (笑)。 しかし、聖書の登場人物で名前が残ってる人は少ないのです。名前が残っているということは初代教会では有名な人物であったと思われます。きっと最初に立てた方針の通りに生き、 慈善の人として有名だったのでしょう。本当に生き方を刷新したのだと思います。
「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。」
さて、ザアカイの回心の始まりはどのようだったのでしょう。彼の振る舞いは、気楽な 好奇心の表れのようにも読めます。「 今評判のイエスってどんなやつか、見てやろう。」
10年ほど前に『ふしぎなキリスト教』という本がベストセラーになりました、橋爪大二郎、大澤真幸の二人の対談形式の本です。キリスト教に対する揶揄も含まれていて、気軽にどんどん読める本です。序文には、「現代社会はキリスト教を基にして成り立っており、そこを生き抜くにはキリスト教の知識が必要である」という意味のことが書いてありました。しかし、現代社会を生きるためにキリスト教の知識を得ようとする人はごく少なかったと思われます。多くの読者はイエス・キリスト という有名な人物、あるいはキリスト教という大宗教について 少しは知っておきたいという気持ちからこの本に手を出したのではないかと思います。
ザアカイの好奇心も最初はその程度のものであったのかもしれません。いちじく桑の木に上り、イエスを見下ろそうというところに、イエスの知識は結局、自分にとって重要なものではないという位置付けが表れているような気もします。
しかし、好奇心から始まった旅路がラジカルな生活の刷新に至ることがあるのです。いや、知的好奇心と見えたものの中に、生き方を変えたいという切実な願いが含まれていることがあるのです。
☆ 説教者の舞台裏
私は説教を作るとき、その日の福音朗読を読んで、最初に思い浮かんだことを手がかりにします。今日の福音では、それは三輪さんのエピソードなのですが、具体性ということが今日の福音の核心とは思えません。しかし、それ自体はためになる話だと思うので 、長く話してみました。
「今日、救いがこの家に訪れた」というところに大事なものがあるような気もしますが、私自身が家族で唯一のキリスト者なので、それを豊かに展開することはできませんでした。今日の説教は福音の釘の頭を綺麗に打ったとは自分でも思いません。自分で満足のいく説教ではありませんが、年間52回 する説教の中には、こうしたものもあるのはやむを得ないでしょう。