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復活徹夜祭・復活の主日の説教

マタイ 28章1~10節 (復活徹夜祭)
ヨハネ20章1~9節 (復活の主日)

◆説教の本文

 ミサは典礼(liturgy)であると同時に、秘跡(sacrament)です。復活祭のミサは典礼の王様で、秘跡の中の秘跡です。
 さて、復活祭のミサは複雑なので、典礼としてだけ語られがちです。特に司式司祭や典礼委員は、ミサが立派に美しく挙行されたかが気になります。
しかし、キリスト者の希望を考える時、秘跡としても考察する必要があります。

 秘跡とは何か。"恵み"をもたらす"しるし"です。その意味は、単に何かを指し示す(しるし)だけではなく、現実の変化(恵み)をもたらすいうことです。
つまり、ミサに与る度に、あなたの生活の中に現実的な変化が起こるのです。

 ミサ、特に復活祭のミサに与ったあと、解放感、何かを突き抜けた気がすることがあるでしょう。司式司祭や典礼委員なら達成感があるでしょう。そうであれば、感謝すべきです。しかし、その解放感、突き抜け感、達成感そのものが、ミサがもたらしてくれる恵みではありません。つながってはいるが、恵みそのものではありません。では、ミサの恵み(現実の変化)とは何でしょうか。

 ガラテヤ書簡で、パウロはこう言っています。「私は、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはや私ではありません。」
そして、続けてこう言っています。「キリストが私の内に生きておられるのです。」(2章19~20節)
パウロのこの表現を借りるなら、ミサに与る度に、「私の内に生きておられるキリスト」が成長するのです。ただし、少しずつ成長されるのです。

 禅仏教に「 一寸座れば、一寸の仏 」という格言があります。 どれだけの時間を座ったか(座禅したか)を線香の燃えた長さで測るらしいのですが、線香が一寸 燃えつきるだけの時間を座れば、一寸の仏(仏性)が必ず自分の中に 現れるということでしょう。短い時間でも座っただけのことはある、頑張れと、座禅の道をこころざす人々を励ましているのです。
 この論法は キリスト教にも通じます。一回のミサに預かっても、世界が変化したとは感じられないのはもちろん、自分の中にも変化は感じないかもしれない。しかし、自分の内のキリストは確かに成長しておられるのです。一寸のキリストです。四旬節第五主日の説教(ラザロの復活)で、思いがけず立派な自分が現れ出て、自分で驚いた経験を話しました。私の内で、知らない間に成長しておられたキリストが飛び出して下さったのだとも言えましょう。

 ミサに何年も与り続けても、復活祭のミサに何年与っても、自分が願い求めていることが実現しないことは珍しくありません。
例えば、私の場合、長年不仲だった親との和解には何十年もかかりました。私の内におられるキリストは、それまで何をしておられたのでしょう。キリストは私の中で少しずつ成長を続けておられたのです。そして、外に現れ出る時を待っておられたのです。時が来ると、イライラさせる親に落ち着いて話すことができる自分、親の話をじっくり聴くことができる自分が現れ出たのです。それは実は、私の中で成長しておられたキリストです。

 和解は相手のある話ですから、自分の中のキリストの働きだけでは和解にまで至らないこともあります。この世のトラブルは、だいたいがそうです。
しかし、周りの状況が好転していないのに、なぜか希望や信頼が生まれていると感じる時があります。私は、ミサに与り続けた年月のある時期から、親との関係回復を焦らなくなりました。和解には至らないまま、どちらかがこの世を去ったとしても、それが終わりではないと、内なるキリストにわからせていただいたからです。

 ミサに与る度に、自分の内なるキリストが成長していくのは、魔術によるのではありません。ミサに限らず、秘跡とは 「神の約束」と「人間の信頼」が出会う場所です。あなたが信仰を持ってミサに与るなら、あなたはキリストに似たもの(内なるキリスト)になる。神は教会を通して、そう約束してくださいました。人間はその約束に信頼して、ミサに与り続けるのです。特に、復活祭のミサに毎年、与り続けるのです。

☆ 説教者の舞台裏

 私は実は、復活祭(と降誕祭)のミサには説教はいらないと思っています。
短いイントロダクションをして、聖書本文をゆっくりと朗読をして、会衆はそれを聴く。そして、「主キリストはまことに復活された 」という出来事をもう一度、しっかりと心に刻みこむだけでいいと思っています。説教はむしろ「出来事」を心に刻む妨げになります。
 しかし、この説教はライブのミサの説教ではなく、読む説教、副読本的に読むものです。そこで、ミサに与り続けることの意義、復活祭のミサに毎年与ることの重要性について話してみました。