年間第24主日(C)年 説教
ルカ15章1~10節
◆ 説教の本文
「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
羊飼いの持っている杖について、興味深い話を 聞いたことがあります。 ウィリアム・バークレーという聖書学者のヨハネ福音書(6章)の注解の中にあります。ユダヤの荒れ地を旅行した人の見聞だそうです。
あの杖は、疲れた羊飼いの体を支えて立たせるものだというのです。 何のために立っているかと言うと、散らばった羊の群れの一匹一匹に目を注ぎ、どこにいるかを知るためです。ユダヤの荒野は危ないところで、深い穴が至る所にあって、羊(目が悪いのです)が落っこちるかもしれない。野獣に襲われて食われるかもしれない。間に合うように助けに駆けつけるためには、一匹一匹がどこにいるかをいつも確認していなければならない。だから、疲れた体を杖で支えて立っていなければならないのです。
日本人にとって羊飼いのイメージは、アニメの「アルプスの少女ハイジ」です。ペーター君(山羊飼いですが)は放牧地まで山羊を連れて行ったら、あとはだいたいのんびりしています。顔に帽子を乗せて昼寝をしています。 ユダヤの羊飼いはあんな暇な仕事ではないというのです 。
今日の福音で、群れから離れた羊を探し回って連れ戻すことが素晴らしいことだということはみんなが同意できます。学校でも小教区でも、そのように行動する人は尊敬されるでしょう 。
しかし、残りの99匹はどうなるのかという問題があります。教師や司祭は、99匹をひとまとめにして、彼らは問題がないと決め込むのではなく、やはり一人一人の位置をきるだけ、よく知ろうとする姿勢が必要ではないでしょうか 。その上で、あの羊は安全な場所にいる、この羊は全く安全とは言えないが、まだ危険な状態ではないと知った上で、危険な状態にある一匹を遠くまで探しに行くのが本当だと思います。
ある聖書クラスでこの話をしたら、それじゃ常識的で、インパクトがないという感想がありました。私は、インパクトがあるかないかという問題じゃないだろうと思いました。聖書を読むということは、メッセージのインパクトの強さを競うものではないのです。
それに、全く安全な状態にあると言い切れる羊というものはないのです。目立たなくても、人(信徒、生徒) は何かの問題を抱えているかもしれません。
私の若い頃は、熱血教師もののテレビドラマが流行っていました。穂積隆信の演じる悪玉の教頭が出てきて、「 腐ったりんごがひとつあると全体が腐る 」などと言って、 非行生徒を切り捨てようとしたものです。
しかし、こんな絵に描いたような悪役はなかなかいない。今、私たちは手一杯で、一人を遠くまで探しに行く余裕はないということでしょう。怠惰の言い訳である場合も多いでしょうが、99人の一人一人をよく見て世話しようとすれば、多大の労力が必要なのは事実です。人は誰でも、多かれ少なかれ、問題を抱えているものです。そして人間のエネルギーと時間には 限りがあるということも事実です。
「 見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『 見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
協力し合うことが必要だと思います。自分一人で、一匹一匹の位置を確かめて、安全を確認し、その上で危険な一匹を遠くまで探しに行くということは難しい。確かに、その姿勢は必要です。
どこかの教師が「 俺はソツのない生徒などには興味はない。枠から外れたような奴が好きだ」 と言ったそうですが、それは個人の趣味です。こういう多数を切り捨てたい人は、公教育には携わらないほうがいいと思います (私塾の講師がならいいでしょうが)。
しかし、九十九匹をきちんと世話することと、逸れた一匹を地の果てまで追いかける、この2つを両方、一人でやり抜くのは難しいことは確かでしょう 。チームワークでやることが必要なのだと思います。今はいちおう安定している九十九匹を世話する仕事と、道を大きく逸れた一匹をどこまでも追いかける仕事、双方がお互いを尊重し、成功を喜び合うことが必要なのだと思います。その協力体制( 協力者 )を今から、少しずつ地道に作っていくことが大切だと思います。体制が整っていれば、いざ、道を逸れていく者が 出てきた時、後顧の憂い少なく、追うことができるでしょう。
☆ 説教者の舞台裏
この説教は理詰めで、それこそ「インパクトがない」と思います。 しかし、 聖書のメッセージにインパクトを求めることは、 ロマンティシズムに陥りやすいと思います。 聖書のメッセージを語ろうとした結果として、インパクトが生まれるのはよい。インパクトのあるなしを、聖書の読む方の基準に持ってくるのは間違いだと思います。
この説教で勧めたことは、私が現役時代には全くできなかったことです。 いわば、あと知恵の綺麗事なのですが、あなたの生き方に何か新しい視点を与えるものであることを望んでいます。
自分自身が 「一匹になってしまった」 体験を持つ説教者は、九十九匹について語らなくても、良い説教が出来るのかもしれません。それは確かにインパクトのある説教かもしれません。私も聴いてみたい。しかし幸か不幸か、 私はだいたいにおいて 九十九匹の側にいました。だから、こういう説教しかできないのです。
脳梗塞で 半身不随になったことにより、一匹の気持ちが少しわかるような気がします。でも、説教として語るには少し足らないようです。