年間第3主日(神のことばの主日)(B年)の説教
◆説教の本文
私たちは福音書を読む時、イエスのなさることよりも、人間(弟子たち)がすることに興味を持つようです。
しかし、福音書はまず、イエス・キリストについて語ろうとしています。人間の行動は、多くの場合、イエスの行動(働きかけ)に対する応答、もしくは反応なのです。イエスの行動や言葉を深く理解しようとしてこそ、弟子たちや民衆の応答(反応)も理解できるでしょう。
「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。」
〇 この文章はより簡潔に書くことができます。「 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っていた」。 わざわざ、「ご覧になった」と書く必要はないとも言えます。 意味的にはほとんど変わりません。しかし、これがマルコ福音書の一つの特徴です。イエスを主語とする動詞を強調することによって、常にイエスの行動を中心に置こうとするのです。
イエスは、いきなりニ人に呼びかけられたのではないのです。まず、ニ人を「ご覧になった」のです。湖で額に汗しながら、黙々と網を打っていた。その頃の庶民にとっては、親から受け継いだ生業以外の人生は考えられなかったでしょう。昨日も漁師だった、今日も漁師だ。明日も漁師だろうと思っていた。その兄弟をご覧になっていた。そして、その後、ニ人を呼ばれたのです。
先の主日の説教で、私たちがなぜイエスの呼びかけに応えたのかの理由をはっきり言うことはできないと言いました。現実にはためらいや家族との葛藤があったのかもしれないけれど、出来事の構造としては「イエスは呼びかけた」「彼らは従った」ということでしかありません。
しかしイエスの方は、その人を見て、「思うところがあって」、弟子になるように呼ばれたのです。
マルコの3章には、イエスがあらためて12人の弟子を呼び出される記事があります。
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」(13節)
「これと思う人々」は、英訳聖書では、those who he wanted となっています。手当たり次第にではないのです。私たち自身には理由は隠されているとしても、イエスには私を選ぶ理由があったのです。
〇 ルカ福音書の6章には、こうあります。
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。」(12~13節)
十二使徒を選び出す前に、夜を徹して祈られたのです。
〇 潜在的には、全ての人が キリストに呼ばれていると言えます。しかし、その呼びかけは全ての人にとって現実化しているわけではありません。イエスは「この私」を呼ばれたのです。イエスがこの私の内に何を認められたのかは、具体的には知らされていません。しかし、誰でもよかったわけではない。抽選に当たったわけでもない。「この私」に呼びかけたのには何か理由があるのです。
イエスが私に呼びかける前によく考えられたという事実をよく黙想すると、イエスの小さな弟子である私たちの生涯に尊厳を感じることができるでしょう。また、潜在的な呼びかけが現実化しなかった人たちに対して責任があることがわかるでしょう。
〇 私は31歳で洗礼を受けましたが、24歳の頃には、栃木県の電機会社の工場で働いていました。大学生の頃からキリスト教に漠然とした関心は持っていましたが、 その関心はまだ具体的な形をとっていませんでした。栃木市には小さいが、美しいカトリック教会があって、その前を通りかかったことを思い出します。ふと心が動いたけれど、中には入らなかった。
工場では(実習期間でしたから) 製造ラインに並んで作業をしたり、会計課でそろばんを弾いていました。この会社で一生を過ごすとは思えず、休みの日は自転車に乗って、田園地帯を走り回りながら、これからどうしたものかと悶々としていました。イエスは、その私を「ご覧になっていた」。そして、数年後に私をお呼びになった。そして、私は従ったのです。
なぜ、この私に呼びかけられたのかを時々、考えます。これだと決めつけるのは間違いですが、なんとなく適当に呼ばれたのだろうと考えるのも間違いだと思います。
(了)