年間第12主日(B年)の説教
◆説教の本文
◇「 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。 すると、風はやみ、すっかり凪になった。」
〇 イエスがおられる限り、大丈夫だ。私たちの乗っている舟は決して沈むことはない。このエピソードはそう告げているようです。
しかし、現実の生活では、舟が沈んでしまうことは珍しくないのです。
実際、その2年後に、エルサレムで舟は沈み、イエスは深い海の底へ沈んで行かれたのです。
私たちキリスト者の安心は、舟は決して沈まない、私たちが海に落ちることはないという安心ではありません。
私は学生時代によく伊豆大島通いの船に乗りました。夜、甲板に出ていると、底の見えぬ、深い暗い海が私を恐れさせました。もし落ちたら、私はどうなってしまうのだろう。私は泳げないのです。
その深い海の底の底までもが、神のおられる世界、イエスが信じる者たちを守ってくださる世界であるというのが私たちの信仰です。
イエスが私たちに先立って、深い海に入って行ってくださったからです。そして、イエスは復活によって、海の底が、恐れる必要のない世界であることを示してくださいました。
〇 私たちは、信仰によって、このことを「知って」います。いわゆる「頭ではわかっている」というのとは違います。単に知識として知っているというのではなく、本当に知っているのです。
しかし、この知っていることを生活の隅々にまで統合していくには、まだまだ道のりは長いのです。
フィリピ書簡 で、パウロはこう言っています。
「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」 (フィリピ4.11~12)
「秘訣」という言葉は良い言葉です。キリスト者は、信仰によって知っていることを、自分の生活の具体的な場で活かせる「秘訣」にまで高めていかなければならないのです。
現代日本を覆う不安とはどういうものでしょうか。私たちを恐れさせる深い暗い海とはどういうものでしょうか。パレスチナのような戦乱、スーダンのような飢餓の恐れは、日本の庶民にとって今はまだ遠いものです。援助活動の対象ではあっても、恐れと不安の対象ではないでしょう。
人それぞれに恐怖や不安の対象はあると思いますが、日本社会全体としてみれば、それは自分たちの生活が次第に切り詰められていく、追い詰められていくという不安ではないでしょうか。私たちには、自分が包囲されつつある、次第に包囲の輪は狭まっているという感覚( siege mentality)があるのではないでしょうか。
その感覚に押しつぶされることなく、元気に生きていくためには、信仰を「秘訣」に高めていかなければならないと思います。
また、パウロはローマ書簡で、「練達」という言葉を使っています。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ローマ(5.3~4) 。練達と訳されているギリシャ語は他にも訳し方があるようですが、私には「信仰生活には、練達=実生活における修練によって身につく熟達が必要である」というのはぴったりときます。
〇 「弟子たちはイエスを起こして、『先生、私たちが溺れても構わないのですか』と言った。」
「何が起こっても心配しない。自分はそれなりに生きていける 」という信仰の境地には、一朝一夕で達することはできません。
私たちは、舟が波をかぶり沈みそうな状況に何度も遭遇し、「イエス様、助けてください」と叫ぶのです。そういう経験を何度もするうちに、次第に「何があってもイエス様がいれば大丈夫だ」ということを少しずつ悟っていくのでしょう。
「しかし、私はそれに限界を定め、ニつの扉にかんぬきをつけ、『ここまでは来てもよいが、越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」(第一朗読・ヨブ記)
(了)