待降節第3主日(A)年 説教
マタイ11章2~11節
◆ 説教の本文
私たちは、すでに知っている方を待っている
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
太宰治に『待つ』という短編があります。
地方の小都市に住む若い女性が、誰かを待つために、毎日、町の駅まで行って、ベンチに座っているという話です。でも、その誰かは来ない。いつも、とぼとぼと家に帰っていく。
彼女は、その誰かが誰であるかをまったく知らないのです。ただ「誰か」なのです。彼女は二十歳で、母親と静かに二人で暮らしています。裕福ではないようですが、たいして不幸でもないようです。
ただ、彼女は今の暮らしに不全感を持っている。人生はこれだけのものではないはずだという予感があるのです。だから、この町から連れ出してくれる「誰か」に出会うために、毎日駅に行くのです。
『待つ』は宗教的な感覚のある良い小説です。太宰治はキリスト者にはならなかったが、聖書には親しんだ人です。漠然とではあるが「宗教」を求めている人の心情を上手に述べた小説と言えるでしょう。
待降節は、キリスト以前の旧約時代を再体験する季節だという説を聞いたことがあります。あるいは、宗教的なものを模索していた時期の憧れと焦燥を再体験する。『待つ』の女性のように、大きな世界に連れ出してくれる誰かを憧れつつ待つ気持ちをもう一度味わって、そして降誕祭を迎えるというのです。なかなか魅力的な考えです。
特に私のように模索していた時期の長かった者は、焦燥と憧れ、そしてやっとイエスに出会った喜びを覚えています。毎年、典礼暦でそれを再体験するというのは魅力的なように思えます。そういう 待降節もあってもよいかもしれません。
しかし、カトリック教会の典礼暦、待降節はそういうものではありません。待降節は、すでにイエス・キリストに出会っており、その方を知っている私たちが、今年、新たにその方を待ち望む季節です。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、 足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
こんな華々しいことは自分には起こっていないと思うかもしれません。 しかし、心を落ち着けて考えてみましょう。自分には多くの欠損があった。例えば、私は目が見えていなかった。その私がイエスに出会って、少しではあるが、今まで見えていなかったものが見えるようになった。
こうも言えるでしょう。イエスに出会ったおかげで見えるようになって、今までそれが見えていなかったことに気づいた。
私は今まで歩けていなかった。心と身体の緊張のために、こちらから近づくことができなかった人々がいる。イエスを知って、もちろん全部ではないが、スッと近づいて、言葉を交わすようになった人たちがいる。
私の中には死んでいた部分があった。無感覚になっていた部分があった。イエスを知って、それが僅かに息をするようになった。
そのイエスが今年、新たに、私のところに来られる。心を込めてお迎えしましょう。すでに知っている方だから、落ち着いた気持ちで待つことができるのです。毎年、待つ心は深まっていきます。
その方は、すでに私に良いことをしてくださっています。今年は、さらに良いことをしてくださるでしょう。目の見えなかった人は、今年もっと見えるようになるでしょう。足の不自由だった人も、今年もっと歩けるようになるでしょう。
そして、これから、もっともっと素晴らしいことをしてくださるでしょう。私のすべての欠損を癒し、十全なものとしてくださるでしょう。
☆ 説教者の舞台裏
(1) 太宰治の短編小説『待つ』を読んでおけば、この説教が分かりやすくなります。 文庫本で4ページぐらいの短いものです。青空文庫という名作文学を 無料で読むことができるサイトがネットにあります。「青空文庫 待つ」で検索してください。
紙の本で読みたい人は、角川文庫の『女生徒』、新潮文庫なら『新ハムレット』 という短編集にあるはずです。
(2) 今日の福音を読むと、洗礼者ヨハネについて長々と語りたくなります。カラフルに話せる材料がたくさんあるからです。しかし、第二主日と同じように、説教者はその誘惑から逃れなければなりません。洗礼者ヨハネの生き様ではなく、待降節には主イエスの到来を語らねばなりません。
(3) 「目の見えない人は見えるようになり」というような出来事は、自分にはまったく起こらなかったという人もあるかも知れません。その人に 「いや、あなたにも起こっているはずだ」 と断言することは、私にはできません。 ただ 、「私には起こっていない!」を一時棚上げにして、「私にも、そういうことは起こっていたのかもしれない」 という寛大な心で自分の旅路を見直して くださいとお願いできるだけです。「私につまずかない者は幸いである。」