四旬節第4主日(B年)の説教
◆ 説教の本文
〇「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」
民数記の21章(4~9節) にある出来事を踏まえています。イスラエルが40年間、荒れ野を放浪している途中、神の怒りをかう行いがあって、疫病に打たれたことがあります。
しかし、神ご自身が、神の怒りを逃れる方法を示して下さいました。「青銅の蛇を作って、旗竿の上に掲げよ。それを見つめれば疫病は去る」 モーセがその通りにしたら、疫病は去りました。
神話的なエピソードですが、ヨハネの福音書で、これに新しい意味が与えられました。青銅の蛇とは、人間の積み重なった罪です。しかし同時に、イエス・キリストのことでもあります。
それを「旗竿の上に掲げる」とは、はっきりと認め、見つめることです。高く上げられたイエスキリストを見つめれば、自分の罪を見つめることができる。自分の罪を見つめることができれば、解放される。
どういうことでしょうか。イエス・キリストと「自分の罪」を別々に見つめるのではなく、同じ画面の中で見つめることが ポイントだと思います。
〇 私たちは、自分の罪が本当はどこにあるのかが、なかなかわからない。もちろん、自分を完全無欠だなどと思っているのではありません。 罪(弱点)があることは認めています。自分の悪いところはこういうところだと、饒舌に語る人もあります。人生の旅で、(刑法上の罪ではないにせよ)、悪事を働いたことがあることも認めることができます。
しかし、本当の罪は、自分の認めている罪とは違うところにあるのではないかという疑いも思っているのではないかと思います。
夏目漱石の『夢十夜』という夢幻的な連作短編の中に、主人公が夢の中で、自分が遠い過去に犯した(らしい)罪を知るという ものがあります(第三夜)。 雨の夜に、子供を背負って暗い森の中を歩いていたら、その子供に示唆されて、「今から100年前 文化5年の辰年のこんな暗い闇の晩に、この杉の根で、1人の盲目を殺したという自覚が忽然として頭の中に起こった。」 (ネットの青空文庫で読めます)
これは比喩的な物語です。自分は何か大事なことに直面しようとしないまま生きてきたのではないかという、ぼんやりとした不安を表現していると思います。
私たちの「罪」の本体は、何年に何をしたというものではなく、大小の個々の罪の源にある自分自身の闇でしょう。私の場合、「傲慢」あるいは「怠惰」というキーワードが「私の本当の罪」の近いところをついてるような気がします。しかし、はっきりとは分からない。それを短い言葉で表現できることは必要ではないと思います。ただ、それを正面から見つめようとすることが必要なのだと思います。
〇 自分の恐れが何であるか、自分が何を恐れているかが本当にわからなければ、「恐れるな」というイエスの言葉が深く入ってこない。今の若者なら「刺さらない」と言うでしょうか。同じように、自分の罪が何であるかが本当にわかっていなければ、「私はあなたを赦す」というイエスの言葉が深くが入ってこないのです。
その作業は一人ではできません。 怖いというより、そんなことをしてもしようがない、億劫だという気がします(カウンセリングとか心理療法はそのためにあります)。しかし、イエス・キリストと一緒ならばできる。イエス・キリストは、信仰者にとって何でも話し合える方です。そして、イエス・キリストは、十字架につけられた方です。先週のミサの福音にあったように、「 イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる」のです(ヨハネ 2章25節 )。何を打ち明けても、戸惑ったり、たじろがれたりですることはありません。十字架につけられる直前に、「父よ、彼らを赦してください。自分が何をしてるのか知らないのです」と言われた方です。
〇「真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
イエスと親しくなり、自分の本当の罪をわかるようになる。これは漸進的な(progressive)プロセスです。一度にわかるのではありません。イエスと少し親しくなれば、心が解放されるので、前より自分の罪をはっきり認めることができるようになる。自分の罪を前よりはっきり認めることができれば、さらにイエスと親しくなる。つまり、「光の方に来る」。そうすれば、また少し自分の罪がよくわかるようになる。そのようにして自己認識は進んでいきます。多分ほとんどの人にとって、自分の罪は完全には明らかにならないでしょう。それはキリストの再臨の時に明らかになります。自分の本当の罪を親しくイエスに告げられることは、キリストの再臨という出来事に私が期待する喜びです。しかし、罪の認識が進み、目が開いていき、少しずつイエスと親しくなっていくこと自体がキリスト者の喜びです。
(了)