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キリストの聖体の祭日(A)年の説教

申命記8章2~3, 14b~16a節
第一コリント10章16~17節
ヨハネ6章51~58節

◆説教の本文

 この主日は、「キリストの聖体」の祭日と呼ばれています。
つまり、「聖体」という 目に見えるモノが、私たちの中に与えられていることを祝い、 感謝する日だと思います。この祝日は十三世紀に始まりました。そして、50年くらい前まで、カトリック信者にとって、聖体というモノは大きな場所を占めていました。しかし、今の私たちの信仰生活の中で、「聖体」がそれだけで占める位置は随分小さくなりました。
ずっと以前は、主日の午後には、毎週、聖体降福式という儀式が行われて、かなりの参加者があったそうです(私はその時代を知りませんが)。聖体をお神輿に乗せて、町の通りを練り歩く聖体行列という行事もありました(私は 一度だけ経験しました)。また、聖体大会という世界的なイベントもあったそうです(何をするんでしょう)。しかし、そういった行事は今、ほとんど教会から姿を消しました。

 時代が変わっただけでなく、神学的にも、聖体をミサ全体から切り離して、それ自体を有り難がるようなことはできるだけ控えるように警告されています。聖体は、ミサ全体の表す「キリストの現存」を凝縮したものなのです。そこで、この主日を、「ミサ」というものがカトリック教会に与えられていることを感謝する日と考えたいと思います。

 実際、カトリック教会にミサが与えられていることを、私は心から感謝しています。私の人生は決して苛酷なものではなかったけれど、それなりのアップダウンはありました。何より、自分には現実の圧倒的な脅威に立ち向かう勇気が欠けているという無力感をずっと持ち続けていました。
 しかし、洗礼を受けてから、ミサはいつも私の側にありました。私が望めば、いつでもミサにあずかることができたのです。そして、私は独りではない、独りで人生に立ち向かっているのではないと感じることができたのです。「 主はあなたを・・ 広くて恐ろしい 荒れ野を行かせ、 硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった」(第一朗読)とある通りです。

 しかし、ミサはいろんな部分から構成されている複雑な儀式です。ミサ全体の中にキリストが現存するというのは本当でしょうが、どの部分を特に重視すべきでしょうか。言い換えると、私たちが特に気合いを入れるのはどこでしょうか。

 ミサが二部構成だということはご存知だと思います。第一部は「言葉の典礼」、聖書朗読と説教があります。第二部が「感謝の典礼」です。奉献文の祈り(eucharistic prayer)が中心です。
いわゆる「ご聖体」は、奉献文の祈りの実りとして立ち現れるものです。そして、ミサの恵みを凝縮したものとして、ミサの最後に聖体を拝領するわけです。

 私は司祭になって、ミサを準備する時間のほとんどは、説教のプランを作ることに当てていました。他の部分を 軽んじたわけではありませんが、特に 準備する必要はないと思っていました。唱える言葉はミサ典礼書にあらかじめ書かれているので、自分で考えなくてもよいからです。それをミサで明晰に、ゆっくりと発音するだけでよいと思っていました。まだ若かったから、自分のオリジナリティを発揮したいという気持ちが強かったせいもあるでしょう。

 年が経つにつれて、重点は後半の「感謝の典礼」に移っていきました。私は説教というものに関心があって、しばしば論じています。それは今の教会には、ミサの説教以外には、キリスト教信仰についてのまとまった話を聞くチャンスがほとんどないからです。 聖書講座が開かれている教会でも、それに参加するのは、小教区のメンバーのほんの一部に過ぎません。ミサの説教はある程度長くなければならないと主張しているのは 、こういう教会の現状を踏まえた司牧的な観点からです。ミサだけのことを考えるなら、説教は短い励ましの言葉で足るという意見に賛成します。いや、むしろその方がよいと思います。

 ミサの中で最も重要なのは「奉献文の祈り」です。それを、信徒は本能的に察知していると思います。実際、ミサの中で、会衆が最も気が散りやすいのは説教です。つまらない説教だからではありません。よく準備されていると思われる説教でも、簡単に気を散らすのです。

 これに対して、会衆が最も集中しているのは、「聖変化から奉献の祈り」の部分です。ここで余所見をしたり、ウトウトしている人を見たことがありません。私は説教に力を入れてきたので、説教で会衆が気を散らしやすいということが不本意でしたが、今はもっともなことだと思っています。ミサを構成するパーツ(parts)のうちで、最も「なければ、なくてもいいもの」は説教なのです。誤解のないように申し添えますが、これはミサを秘跡としての観点から見た場合の話です。 信者の信仰生活全体から見れば、 ある程度の長さで、論理的にまとまりのある説教は必要だと思います。

 私は車椅子で暮らしていますが、今はミサにあずかることができます。修道院に住んでいるので、毎日あずかることができます。しかし、いつかミサにあずかることができない日が来るでしょう。病室に聖体を運んでもらって、それを拝領するのです。そして、その聖体は、私が三十年、あずかり続けたミサと結びついているのです。臨終の時には、最後の聖体拝領(viatecum)をしたいと願っています。これはその時に司祭がすぐ近くにいなければならないので、かなり幸運に恵まれることが必要ですが、ご聖体の一片を口に含んで、死という深い淵を、キリストと共に越えたいと願っています。viatecumとは、「あなたと一緒に」という意味です。その意味では、聖体こそ大事なものという考え方は的外れではないのです。今日の福音にこうあります。

「このパンを食べるものは 永遠に生きる。」

☆説教の周辺
 私自身は、聖体の前での祈りがもっと盛んになればいいと思っています。
私の修道院では、毎週、木曜日の夕方に、聖体を顕示して祈ります。聖体の前ではとても祈りやすいのです。それについて説教したい気持ちもあります。
しかし、信徒の皆さんが、聖堂の聖櫃の前で祈っている姿はめっきり見なくなりました。聖堂を日常的に訪れるのが難しいからでしょう。聞く人に経験のないことについて説教するのは、食べたことのないケーキの美味しさを熱心に説くようなものです。