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年間第28主日(B年)の説教

マルコ10章17~30節

〇「行って持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」

このイエスの言葉は、第二バチカン公会議の前までは、福音的勧告 (evangelical counsel)と呼ばれていました。
勧告と呼ばれるのは、全てのキリスト者が受け入れるべき義務ではない、受け入れなくてもいいと思われていたからです。

そして、修道生活を望む人は、この勧告を受け入れた人々と思われていました。義務以上の勧告を受け入れているので、修道者は神の国により近いと思われていたのです。

しかし、今はそうは考えられていません。イエスの言葉は、全てのキリスト者に向けられたものであるはずだからです。
また、修道生活という生活形態が、「全てを捨てる」という生き方を保証するのではありません。世俗の生活にも、修道生活にも 「捨てるチャレンジ」はあります。ただ、何を捨てるか、どのように捨てるか、チャレンジが違う形をとるだけです。

〇 ただそうなると、「全てを捨てる」という、イエスの求めるラジカルな生き方が何を意味するのか、ということがあらためて問題になります。
全ての人がイエスの言葉に文字通りに従うはずはないだろうし、また従うことが望ましいとも思えないからです。皆が父母、兄弟姉妹、子供を捨てたら、社会が成り立たなくなります。

この福音を解説した文章を読んでいると、時々、「この人がイエスの勧めに従ってすべてを捨てることができなかったのは残念である」と実にアッサリ書いてあることがあります。注解者は文字通り、すべてを捨てているのでしょうか。文字通りではないとすれば、もう少し突っ込んだ考察が必要ではないでしょうか。そこで私の読み方を提案します。

〇 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

この人は、金持ちの青年で社会的地位もあったようです。マタイ福音書、ルカ福音書を読み合わせるとそうなっています。

彼はとても差し迫ってイエスのもとに来たようですが、どういう気持ちでこの質問をしたのでしょうか。

どうやら生活に不自由はないようです。また、生活態度もまず良好なものであったようです。 評判の良い好青年であったでしょう。
しかし、青年には自分には何かが欠けているという思いが拭い切れなかったのでしょう。今日でもこういう不全感に悩まされている人はいるでしょう。

〇 イエスはこの質問に、とりあえず、「殺すな、姦淫するな、盗むなという 掟を守ればよいのではないかね」と答えられました。それに対して、青年は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えています。多分苛立たしげな口調だったでしょう。「そんなことはあなたに聞かなくても分かっています。私が聞きたいのはそれ以上のこと、もっと心に刺さるような言葉です」と言いたかったのでしょう。

〇 ここで、イエスはまさに心に刺さるような挑戦的な言葉を投げかけました。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・ それから私に従いなさい。」

イエスは、誰にでも、このラジカルな勧めをしたわけではないでしょう。思うところがあって、「彼」に対して言われたのです。この青年は寛大に人に施すように見えながら、実は、自分が持っているものに非常にこだわるということがあったのかもしれません。

いずれにしても、これは会話のスタートです。イエスは、その後、青年が「いや、それはちょっと・・」 、「私が言いたいことは・・」というような形で対話が続くのを期待しておられたのではないかと思います。

しかし、青年はその時点でいきなり対話を打ち切ってしまいました。イエスは「おいおい、行ってしまうのか。話はこれからだろうが」と思われたかもしれません。

「その人は、この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

キリスト教信仰で肝心なことは、イエス・キリストと親密な語り合いを続けることです。結論がすぐに出なくても長く続けることです。
キリスト者の生き方を「福音のために全てを捨てる」と端的に表現することはできます。しかし、それが他ならぬ「この自分」にとって何を意味するのか。それはイエスと粘り強く対話を続けるうちに、次第に浮かび上がってくるのです。

〇 このエピソードはオープン・エンディングです。この青年は福音書の世界からはとりあえず姿を消しますが、彼の人生は続きます。もう一度どこかで、エルサレムでイエスに会ったかもしれません。そして、神の国のためにすべてを捨てるということについて話し合うことができたかもしれません。

あるいは、イエスが十字架上で亡くなられた後、どこかで噂を聞いて、「全てを捨てる」ということについて考えるチャンスがあったかもしれません。「そうか、あの方は亡くなくなられたのか。そういう形で全てを捨てられたのか。」

今日の朗読箇所の直後に、このように書かれています。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」(10章31節) 。
キリスト者の選択と決断までには、多くの場合、長い年月がかかるのです。                                                                                             
                                                                                                 (了)