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年間第27主日(B年)の説教

マルコ10章2~16節

◆説教の本文

私は長い間、小教区でミサをしてませんが、小教区の司祭たちは、今日の福音朗読でどういう説教をするのでしょう。
「今週の福音朗読はこれかよ。困ったな」と思う司祭も多いでしょう。

今日ではミサに100人の会衆がいれば、1人は離婚の当事者がいます。ひょっとしたら、3~4人いるかもしれません。
その中で、結婚の原則的不解消性に触れた説教をすると、関係者に極めて居心地の悪い思いをさせることになりそうです。

離婚に至るプロセスは実に千差万別です。当事者には言い分もあることです。しかし、説教は司祭が一方的に話すものなので、当事者は弁明ができないまま、吊るし上げられたという印象を持つことにもなるかもしれません (説教者はそういうつもりではないのですが)。

その困難を避けるために、13~16節(オプションです)を主題にして説教する司祭もあるのではないかと思います。これは子供に関する記事で、結婚とはあまり関係がありません。同じ日に合わせて朗読する意味はあまりないのです。ひょっとしたら、離婚の説教をしたくない神父のための逃げ道かもしれません。

〇 私が前にこの福音朗読で説教した時は、結婚の不解消性そのものに焦点を当てることはせず、創世記を参照しつつ、結婚の「理想」を説こうとしました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。原則的不解消性にはほとんど触れませんでした。ただ、結婚の理想には、原則的不解消性が含まれていることをほのめかそうとしたのです。

しかし、このような「理想」を説くだけの話し方は、現実の結婚生活が突きつける課題には触れていないという気がしました。説教を聞く人は、別の世界の美しい話を聞かされたような気がするのではないでしょうか。

〇 その後、カトリック信者の意識を見ていると、結婚に対する考え方が根本的に変わってしまったと思います。簡単に言うと、結婚はみんなで考える公共のテーマではなくなったのです。本人と家族が個別に対処すべき問題になってしまったのです。

かつての私は離婚をする人が不当に責められないように配慮することを意識していました。事情も知らないのに、「カトリックは離婚してはいけないのよ 」と責める人たちが実際にいたのです。
しかし今や、事態は変わったように思われます。よその家庭の離婚には、良くも悪くも、関心がないのです。関心を示すことは不適切だと思われるのです。「離婚したの、へえ、そうなんだ」。

これは司祭職をやめる場合にも言えることです。今では、司祭がやめても、教会にほとんど波風は立たないのではないでしょうか。「残念だが、まあ仕方がない」。やめた人を居丈高に責めるのも良くないことですが、このような無関心も問題なのではないでしょうか。
同じことが、離婚についても起こっているように思われます。

〇 私たちは、結婚という営みが、人生を生きる中で持つ意味をもう一度確認する必要があると思います。

私たちは、自分の人間性を十分に開花させるように努めなければなりません。結婚は、開花の道の一つです。「一つ」one of many であって、この道でなければ開花しないということはないと思います。しかし、王道であるとは言えるでしょう。

キリスト教的に言って、人間性が開花するためには二つのことが必要です。まず第一に、自分以外の人を配慮(care)しようとすることです。自分の配慮を常に第一にする人は、いかに才能があっても、情操が豊かであっても、人間として開花するのは難しいでしょう。
第二に、配慮の対象である人と、長期(生涯)にわたって、地道に関係を育てていくことです。カトリック教会の主張する結婚の不解消性はこれと深い関係があります。

この二つは、聖書に描かれた「救いの歴史」、神と人間の長い、紆余曲折を経た関わりの中に表れています。「神の似姿」imago dei である人間にふさわしいことです。そう考えると、結婚生活の中に、豊かな人間性の開花の可能性があることがわかります。同時に深いチャレンジでもあることがわかります。

〇 カトリック教会が提示する、もう一つの開花の道は修道生活です。修道者にとって、配慮(care)の対象であり、長い時間をかけて地道に関係を育む対象は神=イエスです。信徒の中には修道者よりも信仰が深いのではないかと思われる人も多いのですが、配慮する、ケアするとは時間をかけることです。 修道生活は、神=イエスとの関わりに時間をたっぷりかけることができる仕組みがあるのです。

〇 結婚をしないで (あるいは結婚生活はするが、そこに重点をかけずに) 一つの技芸 (芸術、教育など)との関係を育てるのに時間をかけるという生き方も開花する道であると思います。
国語教師の大村はま先生はそういう道を歩んだのではないでしょうか。生徒にたいへん慕われた教師ですが、彼女は個々の生徒というよりも、「教育という技芸」に生涯をかけた人のように思われます。

しかし、これは自分の歩んだ道ではないので、はっきりとは言えません。人間性を開花させる道は一つだけではないという例として言うだけです。

自分は「人間性を開花させるなどという大それたことは考えていません。ただ自分の人生を懸命に生きるだけです」という人もいるでしょう。そういう人も、神の眼差しの中にあると思います。

〇 何度も言いますが、結婚の道は、神が与えられた人間性を開花させる唯一の道ではないでしょうが、「王道」だと思います。だから、カトリック教会は結婚に関心を持ち、離婚に口出しもするのです。その口出しがいつも適切なものであるとは限りませんが。
                                                                                                  (了)