復活節第4主日 説教
ヨハネによる福音 10章27~30節
内田病院というリハビリ専門の病院に 9ヶ月いました。 この9ヶ月は私にとって 意義深いものでした。 私の人生の転機になると言っていいほどです。 私は すぐに人と仲良くなるたちではありませんが、 病院にいると 特殊な環境なので、 人と話す機会が多かったのです。 話すといっても隣のベッドの患者ではなく 、 病院のスタッフです、 特に 、 リハビリの若いセラピストたちです。 理学療法士と 作業療法士が 一人ずつ 担当でつき、 彼らが休みの日には それ以外の人たちが代わりに入ります。 リハビリというのはセラピストと患者のラポール(関係)を必要とするので、 セラピストの方から いろいろ話題を見つけて 話をしてくれます。 しかし、心理療法のように、深いものは求められていません。周りの人を見ていると 大体 趣味の話が多いです。 要するに、その時間を 気詰まりにならない程度に過ごせればいいので、 軽い話題が多いです。この辺りは農業地帯で、 農業を行ってきた老人が多いので、 その話題が盛り上がるようです。 私はといえば、 長くいるうちには 結構真面目な話題が出ることもあり、 自分の考えを話すこともありました 。
若いセラピストたちと かなり親しくなりましたが、 「飼い主のいない羊のような有様を 深く憐れみ、 いろいろなと教えられた 」というマルコ福音書の言葉が 身に染みました。
若いセラピストたちは 緊急に困ってることがあるわけではないようでした。 そこそこの給料はもらっているし、 この辺りは実家住みが多い。 若くて健康で 、リハビリのセラピストという 立派な資格も持っている。
しかし、 彼らが時に持つであろう 人生の迷い に真剣に取り合ってくれる 大人はいるようには思えない。失業したとか、はっきりした形になると、相談に乗ってくれる人はいるでしょう。でも、それ以前の段階のつぶやきのような迷いの表明はとりあってもらえない。いまの若者文化では、冗談にされてしまいます。
院長の 内田先生は立派な人ですが、 経営者タイプで、 若いスタッフと 話し込んでいるのを見たことがありません。 看護の主任は パラフルな中年女性で、看護や介護のことなら 真剣に取り合ってくれそうでした。 しかし、若い人の持つ 迷いを人生全体のコンテクストにおいて 話してくれる人は ない ようでした。
私は若いしてる人たちと 真面目なトーンで話すことができ、 特に作業療法士の26歳の男性とは ずいぶん話しました。 彼は職場を良くすることに 関心のある人ですから、傾聴 ということについて 話しました。傾聴ということは リハビリの 教育課程で一応話は聞くようでいていますが 、人の話をよく聞くという程度では 出来ないものなので、 いくらか役に立つことを話せたと思います。でも、実際に役にたったかどうかは、それほど問題ではないのです。
キリスト教の世界では 、自分ではなく、 イエスキリストを宣べ伝えるということを 強調しますが、 この病院のように「 イエス・キリストって誰のこと? 」と言われる環境では、 イエス・キリストを直接、宣べ伝える ことは無理です。 ただ 私を通して、 あなたのことを気遣っている 存在があるということ、 ケアしたい存在があるということが伝われば良いと思うのです。 私がキリスト教の人間であるということだけは 知られていますから 、 縁ある若者にとっては、いつかその ケアの背後に、 イエスキリストが 立ち現れる時があるかもしれません。「 わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける」とヨハネ福音書には書かれています。
私は二度とあのような環境で 若い人と 接する機会はないでしょう。 私が教会外の人と 出会う話をする機会は 、 ヘルパーさんと出会うくらいです。はっきりした相談事にならない段階で、 ふと迷っていることを口にできる 雰囲気は持ちたいと思っています。このような出会いから、キリストを知るまでの距離は非常に長い。しかし、一つの石を置くことにはなるでしょう。
「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」