四旬節第5主日(A)年 説教
本日の聖書 ・エゼキエル37章12~14節
・ヨハネ11章1~45節(短縮版あり)
◆説教の本文
「イエスは・・『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」
私は子供の頃から面白味のない人間だったせいか、友達や先生から愛称やアダ名で呼ばれたことがほとんどありません。「きっしー」でもなく、「ひでやん」でもなく、「 来住くん」と呼ばれていました。 だから、(イメージの中で)イエス様が私の名前を呼んでくださるときも、「来住くん」です。
あなたは、イエス様が自分に話しかける時は、どう呼ぶとイメージしていますか。
「来住くん、出て来なさい。」イエス様が大声でそう呼びかけてくださっている。小さいときから、そう呼びかけ続けて下さっていたような気がします。私の中には、眠っている小さな「私」、死にかかっている小さな「私」がいました。イエスのその声を聞いて、私が墓(洞窟)の中から出て来た。
これは第一朗読のエゼキエルの預言の偉大なビジョンでもあります。イスラエル民族は国を滅ぼされ、小さく、死にかけていましたが、神はこう言ってくださいました。「 私はお前たちの墓を開く」「 私が墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる時、わが民よ、お前たちは私が主であることを知るようになる」。
「来住くん、出て来なさい」。その声を、私は子どもの頃から聞いてきたような気がします。その声を聞いて、グレムリン(知っているかな)のような小さい「私」が、一人また一人と、暗闇から光の中に出て来た。そうして、私は次第に人間になった。
第一朗読の旧約聖書(エゼキエル書)では、神はイスラエルの民に呼びかけられますが 、ヨハネ福音書のイエス様は個人の名前を呼んでくださいます。
熟練した占い師は、自分の所にやってきた人にいきなり、「あなたは一見明るく行動的に見えるけれども、本当は淋しがりやで自信のない人ですね」 といったようなことを言うそうです。すると、かなりの確率で、相手は「はじめて会ったのに、この人は本当の私を見抜いた」と驚くそうです。そして、顧客になっていく。
もちろん、その人の真実を見抜いたわけではなく、ほとんどの人に当てはまることを言っているのです。日常的な雰囲気の中で言っても、効果はありません。「何を分かったようなことを言ってやがる」と反発されるでしょう。しかし、ある種の非日常的な雰囲気、言い方があれば、こういう物言いがスッと心に入って来るそうです。そのような雰囲気を即座に作り出す能力が、占い師の財産なのでしょう。
占い師のこういうテクニックが通用するのは、多くの人間が自分の中に空虚なものを感じているからでしょうか。私は特に、この空虚を強く感じる人間です。しかし、そのために、「来住くん、出て来なさい」と呼びかけてくださるイエス様の声を聞くことができたと思います。
「はっきり言っておく。死んだ者が 神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ5章25節)
「捕らわれ人には出よと、闇に住む者には身を現せと命じる。」(イザヤ49章9節)
☆ 説教者の舞台裏
今週も長い朗読です。マルタもマリアはそれぞれ意味の深いことを言ってるような気がしますが、それを一つ一つ取り扱うことは私の力には余ります。
ただ、「ラザロ、出て来なさい」というイエス様の呼びかけについて、私の経験してきたことを述べて説教とします。経験というより 、私は自分の人生の歩みをこのようにイメージするのです。 このレベルのことは他人と話し合う機会が少ないので、皆さんが同じように感じているかはわかりません。「耳のある人は聞きなさい」という種類の説教ですね。聖書の引用を多くしています。