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年間第4主日(A)年 説教

マタイ5章1~12節a

◆ 説教の本文

「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。」

 マタイの5章から7章は、いわゆる山上の説教です。イエス様がここで言われていることは全て、説教の仕甲斐があります。しかし、5章の冒頭には、イエス様がどのような「態度」、「姿勢」で 説教をされたかが描写されています。これはとても大事です。

 まず、イエス様は腰を下ろされています。説教という言葉から私たちが想像するように、スックと立って、朗々と、手振りも豊かに話されたのではありません。ユダヤ教の文化では、腰を下ろすのは気楽な姿勢ではありません。権威を示す姿勢です。しかし、偉そうにしているというのではありません。ラビが弟子たちに大事なことをしっかりと教えようとするときに取る姿勢です。
  そして、「弟子たちが近くに寄ってきた」とあります。イエス様は不特定多数の群衆ではなく、親しい弟子たちに対して話されたのです。弟子の数を 12人と限る必要はありませんが、名前と顔、そして、これまでどういう生き方をしてきたかを知っておられる弟子たちに対して話されたのです。
 一方、イエス様 は一人だけに対して話されたのではありません。その場には、複数の弟子たちが聴いていました。そして、弟子たちは互いを知っていました。

 その弟子たちを見回しながら、目を見つめながら、じっくりと教えられたことが、いわゆる山上の説教です。

「心の貧しい人々は、幸いである 。天の国はその人々のものである。」 

 今日の福音朗読でイエス様が教えられたことは、「真福八端」と呼ばれます。幸福というもののキリスト教的に端的な表現だからです。
八端の最初は、「心の貧しい人々は幸いである」と告げられています。この言明は、キリスト教の最も逆説的な真理です。

 イエス様が立ち上がって演説口調で教えられたとすると、「 心の貧しい人は幸いである」 という命題が一般的に真理と言えるかどうかが問題になるでしょう。すぐには賛成できません。しかし、少数の弟子たちに対して、腰を下ろしてじっくりと教えられたことだすると、話は違ってきます。そこで聴いている弟子たちは、すでに心が貧しかったのです。 あなた方は心が貧しい。だが、心の貧しいことにおいて、あなた方は幸いなのだ。なぜなら、心が貧しいことが 、神様との接点となっているからだ。心の貧しい部分こそが、イエス様があなたの生活の中に入ってくる入り口(エントリー・ポイント) になっているからだ。

 私は心の貧しい男です。少なくとも、貧しいところがあります。勇気や気力に欠けているし、コセコセしたところがあります。対人関係の緊張が強くて、伸び伸びと振る舞えない。そのため、交友関係は狭い。司祭として、曲がりなりにも通用している男がこう言うと、嫌みに聞こえるかも知れません。
 しかし、イエス・キリストが私の生活の中に入ってこられたのは、その貧しい部分こそが入り口になっているのです。もちろん、私にしても自分がまったく駄目な人間だと思っているわけではありません。私にも誇れるところはあります。たくさんの本を読み、自分なりの考えをまとめ、文章を書くことにはいささか自信を持っています。こういう能力は、イエスとの関係を育てること、教会で奉仕することには役立っています。
 しかし、イエスが私の中に入ってきてくださったのは、やはり私の貧しい心を通してなのです。もし、私が生来勇気があり、のびのびした気性の持ち主で、友人も多ければ、私はもっと悩みの少ない人生を送ることができたでしょう。しかし、イエス・キリストは私の中に入ってくることが出来なかったでしょう。
 そう断言することを、私は恥とはしません。使徒パウロが、「誇る者は主を誇れ」と書いている通りです(第二朗読)。
 皆さんも自負しておられる才能や実績があると思います。それはすべて素晴らしいことです。しかし、皆さんの中にイエス・キリストが入ってきたのは、むしろ、皆さんの欠けたところを通してではないでしょうか。だから、「 心の貧しい人は幸いなのです。」

☆ 説教者の舞台裏

 これは私の会心の説教のひとつです。人に褒められたという意味ではなく、自分の内面と説教がほぼ完全に一体化しているという意味です。
 司祭になって、「心の貧しい人は幸いである」 という不思議な章句の意味を考えざるをえなくなりました。 説教をする必要がなければ、ここまでしつこく考えなかったでしょう。「聖書の言葉を粘り強く考えることを強いられる。」これは司祭に与えられる恵みのひとつです。