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年間第26主日(B年)の説教【増補版】

マルコ9章38~43、45、47~48節

◆説教の本文

〇「もし、片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」

たいへん荒々しいやり方で(切り捨てる、抉り出す)、罪を犯すことを避けよと言っています。しかも、この喩えがほとんど同じ形で3度(手・足・目)、繰り返されています。罪を避けることにおいて真剣でなければならない、ということだと言われています。
ヘブライ書簡に、「あなた方はまだ罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12章4節)と言われていますが、確かに私たちは、「まあその罪については、いずれそのうち何とかしよう」というものだからです。

それはわかるのですが、それを強調するためのレトリックとしては良いものではないと思います。前の主日の説教で、繰り返しは大事だという話をしました。しかし、今回の繰り返しはあまり効果を上げていないような気がします。繰り返しが効果を持つのは間を置いてなされる場合です。同じ場で同じことを同じ言い方で何度も繰り返されると、「クドクド言う」という感じになります(親や先生のいわゆる"お説教"のように)。

〇 それに、意志の力で、力任せに欲望を押さえつけようとするやり方は疑問です。現在のアディクション(依存症)についての知見によれば、例えば飲酒への欲望を意志の力で押さえつけようとすれば、かえって、その欲望を強めることになることがわかっています。

2世紀にオリゲネスという有名な聖書注解者がいましたが、この人は女性関係の誘惑を断つために自ら去勢した人です。非常に尊敬されていたので、去勢も熱心のあまりということで好意的に見られたようですが、しかし、その行為自体は良いこととは思われていませんでした。
腕にしろ、足にしろ、性器にしろ、本来良い目的のために人間に備わっているのです。それを罪の機会となるからといって、物理的に切断してしまうことは、良い用途も否定することになります。

マタイ福音書に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という有名な教えがあります(7章12節)。これは逆に言うと、「人にしてあげたいと思うことは何でも、自分にもしてあげなさい」ということになります。「人にしてはならないと思うことは、自分にもしてはならない」ということでもあります。

人が罪を犯すかもしれないからといって、彼の手や足や足を切断することが正しくないのなら、自分の手足を切断することも正しくないのです。
私たちはほとんどの場合、性急よりも、忍耐を選ぶべきなのです。

〇 「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」

罪を避けるための方法 (ここで提案されている方法は非常に暴力的なものですが)、罪を避ける動機に注目すべきではないでしょうか。
自分が正しい生活をする、ちゃんとした人間であろうとする動機は、罪を避けるためにはあまり力のあるものではありません。人間は、自分のことだけを考えると、案外に「どうでもいいや」と思うものなのです。自分で責任を取ればいいと思うからでしょうか。

それよりも、「小さい者をつまずかせない」という動機が力を持つのではないでしょうか。小さい者とは、自分の子供である場合もあるし、信仰に入って間もない人である場合もあるでしょう。いずれしても、小さい者を思いやる心が、自分を悪への傾きから守ってくれると思います。

「何よりも、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

◇説教メモ
典礼暦では、説教のテーマとして、「私に逆らわない者は、私たちの味方なのである」を選ぶことが期待されているのかもしれません。実際、第一朗読 (民数記)は、これに合わせて選ばれています。私はそれを選択しませんでした。日本の文化、あるいは日本の教会の中では、「私たちに従わないので 、やめさせようとしました 」という態度が問題になることはほとんどないからです。少なくとも心情的には、「私たちはみんな一緒だ」という態度が好まれます。実践的にそれを好んでいるかどうかは分かりませんが。
                            (了)