主の公現の祭日(B年)の説教【改訂版】
◆説教の本文
〇 福音書には、イエスの誕生に関する記事が二カ所あります。
降誕祭には、ルカの2章が読まれます。この出来事記は、ごくローカルな狭い空間(ベツレヘムとその近郊)の中で描かれます。親密な雰囲気です。それだけに逆に、宇宙的な広がりを持っています(天使の大群)。
もう1つは、今日読まれるマタイ福音書の2章です。誕生の出来事は、遠い東の国から始まる 広い空間の中、時間の中で語られます。 私たち人間が空間と時間の中を動き回りながら、神(イエス)に近づいていく有様を考えるには、マタイの記事の方が適しています。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
〇 私は31歳で洗礼を受けたのですが、その探求はどこで、いつから始まったか。色々な場所、色々な時点を始まりとすることができます。内田百間の随筆、内村鑑三の宗教著作を読んだこと、ワンダフォーゲル部に入って山々に親しんだこと。
一つは、高校生時代に、イタリア・オペラに強い魅力を感じて熱中したことではないかと思います。
当時、NHK がイタリアの一流歌手たちを招待したオペラ公演がありました(NHK招待オペラ)。10年ぐらい続いたと思います。本格的なオペラを生で鑑賞する機会はまだなかった時代です。
それにすっかり魅了された私は、高校生の 乏しい小遣いでレコードを買い集めました。
今は富裕層でなくても、外国までオペラ公演を見るために海外に渡航する人は珍しくありません。しかし、1960年代には普通の日本人にはそんなことはできなかった。レコードと「レコード芸術」という雑誌 だけが頼りでした。 レコードを買うお金がない時は、「レコード芸術」に読み耽りました。
私は特にテノールの声に魅惑されました。マリオ・デル・モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、フランコ・コレッリといった歌手が私のアイドルでした(現役歌手としては 全盛期は過ぎていましたが、レコードの世界では彼らがトップ・スターでした)。
〇 私は真の音楽愛好者ではありません。ハーモニーや和音構造の美しさを理解する音楽の素養はないのです。オーケストラ曲やピアノ曲には耽溺するほどの魅力は感じません。
私はただテノール歌手たちの輝くような高音に魅惑されたのです。テレビCMでプッチーニの「誰も寝てはならぬ」(トゥーランドット)というアリアを 聞いた人はかなり多いと思いますが、最高音に到達したかと思えば、その向こうからさらに高い音が突き抜ける 。オーケストラの全奏を突き抜けて響くテノールの声に、世界に顕れる「超越性」(transcendence)の破片を見ていたのだと思います。それは神の栄光の顕れ(公現=epiphany)です。
神はその栄光の破片をこの世界の あちこちに撒いておられる。私は、その破片の一つに心を惹かれたのだと思います。考えてみると、私のキリスト教信仰への道は、「美しいもの」(beauty)だったと思います。 ワンダーフォーゲルブに入って山に親しんだと 言いましたが、実際に汗を流して山に登ったのではなく、麓から 見る山頂の美しさに心を惹かれたのです。倫理的な崇高さ、マザー・テレサ 的なもの(goodness)には敬意を持ちましたが、心を惹かれたとは言えません。
〇 私のイタリア・オペラへの熱狂は、大学に入った頃にはすでに終わっていました。また、イタリア・オペラのストーリーは愛の裏切りと復讐殺人がほとんどです。そこからキリスト教信仰へ一直線に進んだわけではありません(バッハの愛好者には時々起こると言いますが)。
ただ私は、何か美しいものに「熱狂する」ということにはキリスト教信仰につながるものがあると思うのです。哲学者プラトンの言う「エロス」です。
私はイタリア・オペラの後も色々なものに熱狂しました。私には、人間離れした超絶的技巧への憧れがあるのです。
講談落語の話芸にも熱中しました(八代目林家正蔵)。プロレスに短期間、 熱狂したこともあります。プロレスが筋書きがある興行だということは知っていますが、超一流プロレスラーの身体能力は確かに超絶的です。
私は熱狂の対象を自分で極めようとしたのではなく、ただ賛嘆するだけでした。イタリアン・テノールに憧れても、自分でボーカルの訓練をしようとは考えもしなかった。本気で何かを極めようとしたのは、神父になってからです。
〇 しかし、色々な対象に憧れつつ、少しずつイエス・キリストに近づいたような気がします。福音書に出てくる東方の学者も星を見て一直線に進んで、ベツレヘムに着いたのではなく、途中で色々と回り道をしたのではないでしょうか。その回り道の挙句に、イエス・キリストにたどり着いたのではないでしょうか。
ジャニーズ・ファンや宝塚歌劇にハマっている人を見ると、「あんなものに」という侮った気持ちの起こる人もあるでしょう。しかし、美しいものに「熱狂する」気持ちそのものは尊いものだと思います。
彼らの中にも、いつか「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げる」人たちもあるかも知れません。
「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」
☆ 研究ノート :
現代の教会が倫理的なもの、マザー・テレサ的なものを重視し、美しいものについてあまり語りません。私が教会で 孤立を感じる理由です。
倫理的なものが重んじられるのは、今の時代では当然なことだとも思っています。しかし、美しいもの(beauty)のキリスト教信仰における位置付けは、もっと神学的に考えられてよいと思っています。宣教を考える上でも有益です。Hans Urs von Barthasar という神学者は美の神学(theology of beauty)を構想しました。
(了)