見出し画像

待降節第三主日(B年)の説教

第一テサロニケ5章16~24節
ヨハネ1章6~8, 19~28節

◆説教の本文

〇 しつこいようですが、待降節の前半のテーマは「主キリストの再臨」=「神の国の決定的到来」です。
歴史はこの終着点(オメガ点)に向かって進んでいるのです。典礼暦でいちばん親しまれているのは四旬節と復活祭ですが、キリスト教の世界観・歴史観の立場からすれば、待降節と降誕祭が最も根本的です。

しかし、キリストの再臨への待望を維持し続けるのは、人間にとって難しいことです。そもそも何万年も先かも知れないことを生き生きとイメージしつつ、待つのがそもそも難しい。また、それが簡単にできる人はむしろファナティックな信者になるでしょう。エホバの証人のように。

無教会のキリスト者、内村鑑三はキリスト教信仰にとって再臨の信仰が決定的に重要であることをよく理解して、「再臨運動」を始めました。しかし、数年で運動は終わりました。悪い意味で熱狂的な人々が集まってきて、不健全な運動に変質したからだと言われます。
無教会派には典礼がないので、再臨運動と言っても講演会を開いて、「キリストは再び来られます」と呼号するより他にすることがありません。それで結局、行き詰まったと思われます。カトリックの典礼暦は、再臨への待望を毎年、地道に育てることを可能にします。

〇 待降節第三主日は、再臨への待望を持ちつつ、すでに来られ(降誕=第一の到来)、そして今年、新たに来られるイエスキリストへの待望に焦点を移して行きます。ご降誕の出来事を祝い、今年新たに来られるキリストを待ち望む積み重ねが、再臨のキリストを落ち着いて待ち望む心を育てるのです。

季節のテーマは、聖書(福音書)朗読よりも、敘唱に明確に現れるのですが、今日の敘唱は次のものが使われます。

「主キリストをすべての預言者は前もって語り、おとめマリアはいつくしみをこめて養い育て、洗礼者ヨハネはその到来を告げ知らせました。
キリストはいま、その誕生の神秘を祝う喜びをお与えになり、私たちはたえず目覚めて祈り、賛美しながら主を喜び迎えます。」

〇 ご降誕は素晴らしい出来事ですが、何といっても過去の出来事です。現在と繋がっていなければ、私たちが降誕祭を祝う意味はほとんどありません。

イエス・キリストは今すでに、私たちの中におられます。それは2000年前のベツレヘムで始まった。だから、私たちは降誕の出来事を祝うのです。
私たち人間の誕生日を祝うのも、〇〇さんが今、私たちと一緒にいるのは良いことだと思うから、その始まりの日を祝うでしょう。

イエス・キリストの降誕祭には、私たち人間の誕生日と違うところがあります。今年の降誕祭に、イエス・キリストは「新たに」、私たちの中にお生まれになるということです。私たちは毎年、新たな降誕を待ち望むのです。そうして、イエス・キリストは少しずつ、私たちが知らなかった新しい姿を、私たちに現してくださいます。

「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」

〇 今日の福音朗読は洗礼者ヨハネに焦点を当て、降誕の準備を勧めています。ヨハネは偉大で、非常に強い印象を与えますが、過去の人物には違いありません。現在の私たちがご降誕の準備するためには、第二朗読のテサロニケ書簡がふさわしいでしょう。この書簡は再臨を念頭において書かれていますが、今年の降誕祭を迎える準備として読んでもよいものです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて望んでおられることです。」

イエス・キリストはすでに来ておられます。今年、新たに近づいておられます。だから、私たちは喜んでよいのです。
                            「了」