年間第15主日 説教
ルカ10章25~37節 善きサマリア人
☆ 説教 プラン
福音書の最も有名な物語の一つです。
実は、私はこの物語について、聖書注解が述べていることには納得し切れないのです。司祭たちのこの日の説教にも納得できない。
サマリヤ人の振る舞いは確かに立派です。しかし、彼らは、それがキリスト者の日常的な行動の指針になるかのように説教しているように見えるからです。私に言わせれば、サマリヤ人のような振る舞いは、仕事を持つ社会人 (神父も含めて) にとって人生で2~3度できればいい方だと思います。援助事業に邁進する修道者もいますが、一旦自分の仕事になれば、やはりそれを勝手に放り出して、別の人を助けに行くわけにはいきません。
「神父さん、あなたは本気で言っているんですか? 」「こんな親切を、ご自分はしょっちゅうやっているんですか?」と尋ねたくなります。彼の説教を聞いて、会衆は頷いている。「彼らは こんなことを日常的にやっているのだろうか。」「 今はやっていないとしても、日常的にこういうことを行うのがキリスト者として当然だと思っているのだろうか。」
私は、自分の人生において、この有名な福音の物語に登場するサマリヤ人がしたような行いをしたことは、ほとんどしたことがないような気がします。比喩的になら、あります。どこかに行く途中で道を聞かれて、遠回りをして、その場所まで連れて行ってあげたとか。しかし、スケールが非常に小さい。善きサマリヤ人だったと言うにはためらいがあります。
しかし、だからといって、私が全く自己中心の生活をしてきたわけではない。 私には、私なりの献身があったのです。 ただ、それは個人対応のものではなかったのです。私は若い時から思想的な事に関心があって、それを自分の能力の及ぶ範囲で考え抜いて、そして理解できたと思うことを自分の言葉で伝えてきました。それによって、いくらかは人のためになったと思っています。 しかし、「善きサマリヤ人とは言えないよなあ」と思うのです。 私はこういう自分の生き方を悪いとは思っていない のです。
しかし、福音書にこういう物語がある以上は無視できない。そして、注解書(私が尊敬している著者もいます)がほぼ一致して、この福音書箇所のメッセージはこうだと述べていることは無視できない。何時でもこんなことを考えているわけではないが、靴に入った小石のように私を悩ませてきました。
創世記32章に、ヤコブがペヌエルというところで、神の天使( 神ご自身かもしれない )と格闘したという、不思議な味わいの物語があります。私はいつも、納得しきれない聖書箇所を考え抜こうとする時、この物語を心の支えとしてきました。「 私はまだ納得していない」 と言うことは、神への反逆ではない。 むしろ、神と誠実に向かおうとすることであると思っています。
ただまずいのは、私が神父で、教会の公的な説教をしなければならない立場だということです。自分が普通の解釈に納得していていないということを、説教の場で言うわけにはいかない。かと言って、普通に行われているような説教をすることもできない。心にもないことを説教することは罪です。
私は何か大きな思い違いをしているのでしょう。イエスさまはいつか、それを分からせてくださるでしょう。それまでは、次のような寸止めの説教で御免を被っています。
◆ 説教本文
このサマリヤ人が、いつもこのように行動していたとは思えません。彼は困窮してる人を探してパトロールしていたわけではなく、仕事の途中だったのです。今遂行中の自分の仕事を脇において、困窮している人のそばにより、 世話をして、もっと安全な場所に連れて行く。そして、預けられた人が安心できるように責任は自分が持つと約束する。当時は、道端に倒れている人は そこら中にいたはずです。お金も時間もかかります。その全ての人にこのように対応していたら、 彼は自分の生活ができなくなっていたでしょう。
しかし、彼はなぜか、「 この時」、「 この人」を放っておけないと感じたのでしょう。あるいは、「神様がこの人の世話をするのはあなただ」とおっしゃったように感じた。
イエス様は 「隣人になった」のは誰かと問われたのであって、「隣人であった」のは誰かと問われたのではない。では、「行って、あなたも同じようにしなさい」とはどういう意味か。「 行って」、つまり人生の旅をしなさい。旅をしていると、道端に倒れてる人が見えるだろう。 何人も見えるだろう。 そのほとんどを、あなたは見過ごさなければならない。心を痛めながらも、 見て、そして通り過ぎるだろう。しかし、道の両側を注意深く見つめながら歩んで行くならば、その中から、呼びかける人があるかもしれない。「私の隣人になってくれるのは、あなたではないのか」。あなたは、かすかな声を聞いたような気がするかも知れない。「この人の隣人になるのは私ではないか。」 やはり、それでも通り過ぎるかもしれない。
立ち止まって、そばに寄り、関わりが始まるかもしれない。 関わりは 次第に複雑になっていく。人間とは、世話をされて、素直に可愛らしく感謝するだけのものではないからである。関わりが深くなるにつれて、相手にとってそれは既得権益となり、要求は強くなっていく。どうして、もっとしてくれないのか。あなたはそれでもキリスト者か!
その時、どの道を選ぶかは、あなたに委ねよう。あのサマリヤ人もやはり選んだのだ。
善きサマリヤ人の物語は、私を悩ませてきました。「自分はどれだけ人を助けるべきか」は、若い頃から、私にとって大問題でした。「 私の隣人とは誰ですか」 という律法学者の問いかけは決してつまらない ものではないのです。彼の意図が良くないものだったとしても 。
しかし、イエス様はこの物語を語ることによって、この問いかけを軽々と乗り越えさせようとしているように思われるのです。 説教本文に書いたことは、今の私が言えることの全てです。