見出し画像

年間第31主日(B年)の説教【増補版】

マルコ12章28b~34節

◆説教の本文

〇 「あらゆる律法のうちで、どれが第一でしょうか。」

人間が頭の中で同時に考えることができるのは、三つまでだそうです。当時、律法と呼ばれるものは700近くあったそうですから、真面目なユダヤ人にとっても、その全てを守れているかどうかを考えることは不可能だったでしょう。

この律法を守っているかどうかを考えていれば、その他の律法は全て含まれる。含まれるとは言えなくても、その律法を守っていれば自ずと他の律法も遵守できるようになる。そんな律法があれば知りたいと思ったのは自然なことです。
実際 、高名なラビに「どの律法が第一ですか」という質問はよくされたそうです。

ダイエットの秘訣は、「いろんな食物をバランスよく食べること」、「食べる量を少ない目にすること」、「 適度な運動をすること」 だそうです(当たり前!) 。でも、そんなに多くのことをいつも考えていられないと思う人が多いので、この食品さえたくさん摂取していれば痩せられるという「〇〇ダイエット」が周期的に流行するのと似てると思います。林檎ダイエットとか、蒟蒻ダイエットとか。

〇 律法学者は一つに絞って答えてほしいと願いましたが、イエスの答えは二つでした。「神を愛すること」、「 隣人を愛すること」。

論理的に言えば、イエスは 一つの律法に絞ることもできたはずです。キリスト教信仰では、神は万物の創造主です。そして、人間も神の被造物です。ということは、人間を愛することは、神を愛することに含まれるはずです。実際、美しい森を愛することは、神を愛することに含まれると考えることができるでしょう。しかし、人間はそうではない。人間を愛することは神を愛することには含みきれない、はみ出すものがあリます。

人間は被造物の中で特別の位置を占めるからです。つまり、自由意志を持つからです。人間は、当方の期待を裏切るものです。「飼い犬に手を噛まれる」という言葉があるように、動物も人間の予想を越えた動きをすることはあります。しかし、それは意外な行動というだけで、人間の心を大して傷つけません。
一方、人間に裏切られれば、私たちの心は深く傷つきます。
「それでも人間を愛する」ことは、「神を愛する」ことに単純に含ませ切れないのです。それが、イエスが「神を愛する」ことと、「人を愛する」ことの二つを、最も大事な律法だと答えられた理由だと思います。

〇 人間は二本の足を交互に前に出して前進します。 一本足では力強く立つことはできても前に進むことはできません。人間は人生の旅路を前に進まなければならないものです。イエスの答えが二つであったことにも、そういう意味を見い出すことができるでしょう。

人間という存在はややこしいものです。隣人を愛することは とても複雑なことです。長い歴史の中で因果が絡まりあっています。個人の人間関係でもそうですし、民族間となると、はるかに複雑です。パレスチナとイスラエルを考えればわかるでしょう。もし、「神を愛する」ことから、「人間を愛する」ことと重なる部分を引き算すれば、神を愛することはもっと単純になるでしょう(容易になるとは言いませんが)。

もし今、あなたが「 隣人を愛する」ことの複雑さに疲れ、嫌気がさしているなら、しばらく、「神を愛する」ことに集中したらどうでしょう。祈ること、聖書を読むこと、典礼にあずかることは神を愛することです。

そして、力を回復したら、再び人を愛することの複雑な世界に戻っていきましょう。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

〇『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカルがあります。日本では森繁久彌、西田敏行が主演しました。帝政時代のロシアに住む、4人の娘を育てる貧しいユダヤ人の牛乳屋が主人公です。彼がしみじみとうたう歌が「もし私が金持ちになったら」 (If I were a rich man)です。

今は稼業と娘たち(難しい娘たちなのです)を育てるのに精一杯だが、もしいつか金持ちになれたなら、ユダヤ教の会堂にしょっちゅう出入りする。そして、ラビたちと一緒に聖書の研究をする。なんと幸せなことだろう。そんな内容です。

牛乳屋さんが聖書の研究と言っているのは、学会の先端を行くようなオリジナルな研究という意味ではありません。多くのユダヤ人がもう知っていることを、あらためて、自分なりに研究して行くようなことを言うのです。でも、彼にとっては、生涯のこの上ない喜びとなる。聖書を自分の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」研究することは、神を愛することだからです。

〇 人生の晩年になると、誰でも、人を愛することは制限を受けます。現実的な力(体力・金力)がなくなるし、また、人を愛することの複雑さにも耐えられなくなるでしょう。高齢の祖父祖母は孫を可愛がることはできたとしても (それも大事なことですが)、孫の複雑な成長過程に関わることはできないでしょう。 いわゆる「ご隠居さん」になるのです。

それを嘆かわしいことと思わず、今こそ、神を愛する時間がたっぷり取れると考えたらどうでしょう。週日の朝ミサに与る老人は、暇を持て余して、教会に毎日来るのではないと思います。

「そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束された通り、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。」
                            (了)