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聖家族の祭日(B年)の説教

ルカ2章22~40節

◆説教の本文

〇 今日は聖家族の祭日です。いわゆる「聖家族」は、私たちの営む家族の模範であると言われます。しかし、イエス・マリア・ヨセフは、普通の家族ではありません。家族のキリスト教的理解によれば、家族の本体はまず夫婦です。夫婦がまずあって、二人の愛ある交流の実りとして、子供が誕生するのです。

一方、聖家族は子供が中心です。子供、つまりイエスをこの世に産み、育てるためにマリアとヨセフが召喚されたという構図です。

キャサリン・ハードウィック 監督の映画「マリア 」(2005年) では、これを物足りなく思ったのか、マリアとヨセフの夫婦としての情愛がかなり丁寧に描かれていました。それは「そうであっただろう」、「そうでなくてはならない」と思わせるものでしたが、やはり福音書には書いてないと言わざるを得ません。

〇 そういうわけで、聖家族を、現代の家族の模範というわけには行かないと思うのですが、親子関係というものを深く考える上では、確かに聖家族は模範です。「聖親子の祭日」と呼びたいくらいです。

子供を育てるということには、親には多くの苦労と心配があると思います。この祭日には、その労苦を祝福するという意味があります。しかし、もうひとつ、子供が親にとってわからないものになっていくことの不安。これが親であることの労苦の芯にあります。どの親子にも、潜在的にあることだと思います。天才の子ども(gifted)を持つ親に限ったことではありません。

今年(B年)の福音朗読は、ルカ2章のイエズス誕生後の8日目の出来事が取り上げられています。老預言者シメオンが両親にこう告げます。

「 あなた自身も剣で心を差し貫かれます。」

子供を育てることに必ず伴う病気や事故の心配のことを言ってるだけではないと思います。

〇 C年の福音朗読には、イエスが12歳になった時のエルサレムの旅の途上の出来事が取り上げられています(ルカ2章41~51節)。両親は少年イエスは旅の途中で見失ってしまうのです。

「祭りの期間が終わって帰路に着いたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。」 (43節)

親子は三日後(!)に、無事に再会します。しかし、マリアとヨセフにとっては、自分たちの息子イエスが何か使命を受けているのではないか、自分たちから離れて行ってしまうのではないかという不吉な予感は去らなかったでしょう。

私たちの息子は、イエスのように特別な存在(神の子、救い主)ではないでしょう。しかし、神が作られた一人の人間としての運命、あるいは使命を持っています。
伝統工芸の老職人の後継者に、息子がなるという新聞記事やテレビ番組があります。私たちはそれを見て、ほっこりとした気持ちになります。私たち自身は職人でも何でもないとしても、こういうニュースにはどこか安心させるところがあります 。
父の仕事が息子に受け継がれ、父は息子が自分を乗り越えることを期待しながらも、先輩として自信を持って息子に教えることができる。その職業に伴う苦労や知恵を、酒を酌み交わしながら、分かち合うことができれば、とても幸せなことだと思います。
個別のケースは、それで幸せであることは疑い得ないでしょう。しかし、皆がそうなってしまえば、縮小再生産です。人類の未来は開かれないのです。

〇 息子が親とまったく同じ道を歩かないことは起こります。同じでないだけではなくて、親には理解できない道を歩み始めることも 起こります。これは親にとっては苦しみになります。今までは父と子の間に起こった問題でしょうが、これからは娘と母にも多く起こるでしょう。

親が子供に安全な道を歩いて欲しいと思うことは当然です。自分のよく知る道を歩んでほしいと思うことも 当然です。しかし、「この子には何か使命を受けてるかもしれない」と思う心の余裕があるといいと思います。

職業選択の問題だけではありません。配偶者の選択にもあります。 この人に寄り添うことが 息子(娘)の使命であるかもしれないのです。 たった一人の人を幸せにできるとすれば、苦しみを減らすことができるとすれば、それは神の前に小さなことではないのです。

「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」
                        「了」