年間第3主日(神のみことばの主日)(C年)の説教
◎ 第1コリント12章12~30節
〇 ルカ1章1~4節、4章14~21節
◆説教の本文
今週は、第ニ朗読(のコリント書)についてコメントしようと思います。
直接の理由は、今週の福音朗読について説教することは、私には難しいからです。
この箇所(ルカ福音書の冒頭)は、福音書の中でも花形的な箇所の一つです。しかし、「 この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」という力強い御言葉を、今日の世界情勢、日本の社会の状況で語ることは、今の私には難しいのです。
「神の言葉はきっと実現する」という信仰が揺らいだわけではありません。しかし、トラブルが続出する今の世界情勢の中で、それを熱意を持って語るだけの気力が今はないと感じます。説教者には、そういう週もあるということです (こういう時には無理をしない方針です)。
〇 もう一つの理由は、たまには第二朗読を説教するのもいいと思ったからです。現在のカトリック教会では、説教はその日の福音朗読を基に行われるのが原則です。しかし、毎週そうでなくてもよいはずだと思います。
典礼暦は、何年もずっとミサに与り続ける人を前提にしています。福音朗読は3年周期です。つまり、3年に1回、同じ福音箇所が朗読されるのです。何十年もミサに与り続けていると、何度も同じ箇所の説教を聞くことになります。
もうこの福音書について説教は十分だということはありえないでしょうが、 個人(説教者、会衆)としては、「しばらく、この箇所はいいかな」と思うことはあります。その場合には、第一朗読、あるいは第二朗読を基に説教することもありえると思います。
そして、使徒書簡には、実際の信仰生活の具体的な教えが多く含まれています。説教はキリストの救いの業を伝えることが大事な役割ですが、やはり、具体的な生活の勧めがあってほしいものです。特に、教会生活についての勧めです。使徒書簡を基にすると、その機会が豊富にあります。
〇 メンバーが、それぞれ自分の才能(スキル)を持ち寄って、グループの中で認められ、また共通の目的を追求するという姿は望ましいものです。
映画では、「七人の侍」とか 、「荒野の七人」 (The Magnificent Seven) のような、スキルを持った達人が集められて(集まって)、一緒に冒険をする(村を救う)、あるいは大胆な犯罪を企むという作品が繰り返し作られています。このジャンルのお話は特に男性が好むでしょう。
スキルのある自分を認めてくれるグループ、そして献身を認め、保護してくれるグループに属することは、男性の見果てぬ夢なのです。しかし、2018年に公開された「オーシャンズ8」は女性だけで固めていました。
〇 今日の第二朗読の与える教会のイメージは、それに似ています。
「いいなあ」、「こういう教会であってほしい」と思う人は多いでしょう。しかし、もう少し突っ込んで、教会の現実を考える必要があります。
聖霊の賜物とは、とりあえず、 スキル (才能)のことです。しかし、スキルのある人は、教会だけに与えられているわけではありません。どこにでも出現します。
「聖霊の賜物」であるゆえんは、むしろ、そのスキルを大胆に、そして謙遜に教会に差し出すところにあります。
まず、謙遜について考えます。スキルは教会にとって有益なものであることは当然ですが、個人にとっては自分の居場所を確保するための手段ともなります。日本の教会は小さくて、権力もお金もありませんが、一旦そこに属すると、人間は「安定した自分の居場所」を求めます。
自分の居場所を確保するために教会に必要なスキルを持っていることを利用する人が多いと、教会共同体は次第に腐食します。繁栄しているように見えることはありますが、その内実は「白く塗った墓」(マタイ23.27)です。
そのスキルが教会共同体にとって不可欠なものであればあるほど、腐食も深刻になります。
観想修道院では、オルガン演奏の高いスキルを持った会員は非常に貴重です。しかし、新しい会員には、あえてオルガンを弾かせないという方針を持つところも多いと聞きます (今でもある習慣かどうかは知りません)。
「私は修道院にとって不可欠な人材である」という意識は、その人の修道者としての成長を妨げるからです。その会員が奉仕のためにオルガンを弾くという精神を本当に持ったと判断されて、初めて弾かせるのです。
また、新しく修道生活を始めた人に実務的なことをさせる(補助ではなく)ことは控えるべきだと言われています。オルガンと同じ理由です。
〇 修道院は教会共同体を煮詰めたような場所ですから、この配慮は小教区も当てはまるでしょう。
しかし、今は小教区はどこでも人材不足です。教会委員長もなかなか、なり手がいません。その状況の中で、謙遜を重要な基準とすることは難しいでしょう。スキルがあり、やってくれるなら、誰でもお願いしますと言いたいところです。
しかし、このような考慮点があるということを意識だけはしたいものです。全く警戒しなければ、小教区も長い目で見て、目に見えぬ腐食は免れないでしょう。
〇 人材不足の中では、「それは私がやりましょう」と自分から手を挙げる人が求められています。自分から手を挙げることは不安なものです。
「是非やってください」と頼まれて、渋々引き受けた場合は、上手くできなくても責任は小さい。しかし、自分から手を挙げた場合には、責任が大きくなる気がするからです。
賜物を用いる上での、勇気と大胆さは、マタイ福音書25章の「タレントの喩え話」で論じられるポイントです。
(了)