「ノブレス・オブリージュ」が貴族の称号と化した現代社会
エリートと庶民の関係性の変化
前回の内容のように、エリートと庶民との分断が視覚化されつつある時代ですが、本来はこの両者がどういう関係性が理想なのかを示したのが「ノブレス・オブリージュ」でした。
前回のように、エリートが内心では職業の貴賤などを挙げていたのも、最初は目指すべきラインを定めて庶民の上昇志向を育むという目論見があったのかもしれません。しかし、金持ちを金持ちにするために支えている社会に異議を唱えられるようになってしまったのが今の社会です。
恵まれた者としての責務
東大の入学式では、自分たちのこれまでの「環境」に感謝を促す言葉が送られています。これを入学生たちは恵まれた人生を辿ってきたことで、それを一般的なモノだと解釈してしまうエリートの中には「選ばれた人間」であることの称号として受け取ることも多いでしょう。しかし本来、ここで述べられている「ノブレス・オブリージュ」とは真の定義に回帰しており、高貴であるからこそ徹底的な義務を遂行する宿命にある。
艱難辛苦を受け入れた先に、自分の在り方が定義される。社会に対する義務を負うのであれば、より高みに立つ存在はそれをより背負うことになるし、その役目を遵守することが必要なのだということです。
この向かい風として価値観の近代化によって、下々の人間たちが高貴な人々にプライドを与えるという事が難しくなりました。庶民がエリートを監視する役割を負ったことで、何かにつけて不平不満をぶつける受け皿と化したから。
リスペクトの欠如
これによって、自分たちへのリスペクトが感じられないどころか、何かミスを起こしてしまった時に理解を示してくれない、仲間として受け入れてくれない市民に対して品位を保つ必要性が感じられなくなってしまったことが、エリートとの断絶が生まれた大きな要因であるのでしょう。そうして、自分たちの権益に繋がることに注力する図式を一度創り出すと、市民は常にそれを疑ってかかる。
互いをリスペクトできない関係性が生み出しているのであれば、我々は身内に向けた親愛を語る一方で、何かを許して許容するという愛そのものを気概として失っていることも大きく繋がっているのでしょう。