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なぜ人間は「真実」というコンテンツにこれほど脆いのかという話



クソデカ主語もとい「一般化しすぎ(Over Generalization) 」問題

真実という言葉を多用する人の正体

自分のもとに流れてくる情報や感覚は“正しいに違いない”という意識は誰もが持ちうるものだと言われている。そして、怒りや不安の感情が高まると「伝えた方がいい」「この人は信頼できる」と瞬間的に感じてしまう。これが発信者の商いとして地盤になる。
その沼に浸かったら、いつしか是々非々で批判も支持も両方というバランス感覚を見失う。まさに旧世紀から続いている「信教の時代」であり闘争の勢力図に巻き込まれるわけですね。
たしかに事実や何とも言えない繋がりを強調していくとこういう見方をすることもできる、というタイプの話は染み入るし面白くはあります。しかし、日常の疲労から思考力を鈍らせて物事の価値判断を委ねてしまうところに付け入るような「ご都合主義のストーリー」に依存することが、今の世では満ち溢れるようになったことに私たちは危機感を抱かなければならない。

「無知の知」を認められないことでハマる沼

筆者がこれまで繰り返し語ってきているように問題は、自らのアイデンティティを「外部情報」に依存していると他人への影響力や承認欲求を発散させようとするあまり、誰もが自らの言動の無思慮・無責任さに自覚していないということだ。
週刊誌からの習わしに過ぎない刺激的なパワーワードや短文サムネタイトル、エコーチェンバーによる偏った見方、インプレッション数を鵜呑みにしてふわっとしたものを受け売りのまま事実として言い切ってしまうのに加えて、何かの「原因探し」や「批判」として切って捨てて見せるコンテンツは興味を惹きつけてより伸びるなど、信教に依存した「人類史」とまったく同じ轍を踏んでいると気付いていない。


「結論」
「答え」ありきで世界の真相を知った気分になって気持ち良くなれる話題を好み、手が届かない「誰か」や「組織」のせいにするばかりで自分自身を省みなくて済むように「気を遣われてる」ことに目を向けられない。自分に非や責任が無いというトレンドに手を出し続けたら、その方が負荷はかからないから楽しいし都合が良い。
不快感もなく記憶に定着させられてお勉強しているような気分になるし、常連と化した頃合いには商品に案内されるお知らせが届くようになる。
そして現代病とも言える「他人との比較行動」から生じる<闇>を刺激され続けたことで、周囲の関心を引き付けられる何かを訴えかけながら自らの<承認欲求>を満たそうとする。誰かのためにやっているという大義を振りかざしながら。

それで孤独になったと自分語り嘆いて同情寄せようとする人や記事をたまに見かけますが、いろいろ言及するよりも先に、根本的にコミュニケーションの手段として自分の気持ちを優先しすぎるあまり認知の歪みに結びつかないこと、いかに自己中心的に世界を物語ろうとして「そういうところ」だぞってなるわけです。


陰謀のメカニズムと無自覚なダブスタ

一定の影響受けやすい層が口達者な人を崇拝しちゃうと、特に自己愛の肥大化を愛国詐称に押し包まれてしまうことは歴史的に何度も繰り返してるレベルで非常に多い。フランスも近代史では「革命」と大層なお題目を掲げていても、実態はその都合の良い空気に酔って流されての繰り返しです。

ソクラテス曰く「無知の知」を認めることから始まる

現状や将来への不安から、誰しも現状を劇的に変える希望に心惹かれてしまうことはある。しかしその希望を見せてくる相手が気さくな笑顔と共に何かしらの思惑を秘めていたり、人が集まるところには必ずといって良いほど何かしら欲を満たそうとする想いが交錯する。
そして、自分の主義や思考の方向を正当化しようと出来合いの「真実」を拾い集めて、自ら検証もせずに他を否定して「敵味方」という立ち位置について責任を問う一方で、自らの責任を取るテーブルに立とうとしていない欲望の発散の仕方も彼らの特徴的だ。正しいであろう自分達の非を認めることはないし、公的な立ち位置にいるわけでもない。決して負けない私たち、要は「無敵の人」メンタルに過ぎない。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/cas.16272


世の中の事象の全てが誰かの悪意によって引き起こされてると決めつけ、そう決めつけないと納得できない人ほど「悪魔の証明」を嬉々として語るようになって信じてしまうなど、宗教が力を失った今だからこそ、宗教の地位を務めている人間の脆さを補える「何か」が着実に力を伸ばし続けていることに目を向けなければならない。

誰かを推す自体は素敵だし自由だ、しかしその一部が正しいからと言って「善」にシフトするのは「狂信」に過ぎない。
その目的意識や欲望を見据えられないままでは、いざ問題が起きた時にその人の風向きが悪くなったら切り捨てるのは「他責思考の人間性」が育つだけだと自覚できなくなるのが、私にとって何より鳴らしたい警鐘です。

他人に対して責任を背負うことも、証明する必要がないこういうトピックは、自分の人生に不満やら退屈して憂さ晴らししているタイプにとって「渡りに舟」だということに盲目だ。

そうして事件や事故の被害者は「数値化」できるから叩いてばかりで、救われた命は数値化されないし「想像できない」から「評価の対象」とならない。
私たち自身の「知性」「精神性」「想像力」の欠如が、この状況を招いていることに思い至らないことが何より「終わってる」ことなのだと気付いてほしい。

「あの時」の妄想から進歩していないオトナ達

何を信じるのも個人の自由。しかし、どういう経緯で情報が自分の目の前に現れているのか一切言語化できていないまま「事実」と認識して人と話すのは非常にマズイ。たとえイエスと答えようがノーと答えようが、自分の求めている言葉に基づいて喋り出そうとするし他人の言葉を受け付けようとしない。
そして社会における権威や影響を否定しておきながら、そこから生じている「目覚めた」自分達の権力創出に注力している「ダブルスタンダード」に当人たちは気付かない。
陰謀とそれにまつわる巨大な恐怖のイメージを受け取り、それを信じたり感じる人が増えれば増えるほど「自分達の価値や権威を高めてくれる」という一種の共生関係に基づいている実態に無自覚か、見て見ぬフリをしている。

皮肉なことに、他人の価値観を尊重出来る人なのか、人として器の大きい人なのかといったものをかなぐり捨てて「自分が不幸だ」と哀れむことを選んだ瞬間、そういった面から既視感がある「その欲望」は誰もが経験しているからこそ傍からは丸裸なのだ。

「世界が崩壊したらどうこう」というのも、学校の教室で事件やテロリストが襲来したら「自分が活躍して周りを見返せるのだ」というあの頃の妄想から抜け出せていない。初期衝動や行動原理として同じに過ぎない。
そして、そこから未だに卒業できない人ほど浸かり続けてしまう「甘い情報」がわんさか転がっている。

対話が可能なレベルの品性や知的水準を示さず、反論されたときに自分の言葉で言い返せない。その筋の「情報」や「発信者」を見ろとしか言えないバックファイヤ効果で自らをより強く補おうとする。いわゆる「クソデカ主語」を扱う人が増え、そういった感情に訴えかけるインフルエンサーの「口コミ」が今流行りのコンテンツとなったのは、歴史的にも人間のメカニズムとして自然ではありました。

が、共通の敵を作り、自分が何者かというのを認識できることで安心感を得るというのが人間の常とはいえ、この状態でついにオトナ達が「同族によるコミュニティ」への帰属意識を見出してしまって、善と悪の戦いを求めだしてることに、本当の無自覚な思考停止という暗澹たる想いが消えない。

個人としても全体としても成熟するために必要なのは、歴史と同じ轍を踏んでいる敵を探し出す「二元論」ではないと知っているはずなのに。
人は同じ過ちを繰り返すといえばそれまでですけどね。

今回はそういう方面を研究した面白い論文があったので紹介しておきたいと思ったのと人間社会の「他者に対する読解意欲の低下」の問題についてでした。

神戸大学学術成果レポジトリ
「神戸大学大学院国際文化学研究科日本学コース」
栗原, 健太, コロナ禍における日本の陰謀論を問う, 日本文化論年報,2023-03.
26. p.127*-179*.
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/0100481683/0100481683.pdf



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