この近年世界を「覆いつくすもの」について整理してみよう。
人間を形作るのは習慣と環境に他ならない。
それ故に他者や獲得したものから影響を受けやすい。
個人の価値観やら考え方だって、その基盤となっているのは、どこかの偉人や誰かさんの考えや、それを詰め込んだ作品に行き着くかもしれない。
そして、その誰かから受け継いだバトンを他の誰かに受け継がせること。
その行為の積み重ねにおいて、自分たちは次の世代に何を伝え、繋げられるのか?
これをコントロールしようと、今の世界は様々な制約、枠に縛られることを個人に迫り、自由というお題目で「同質化」が掲げられています。
そして自分をもっとも追い詰めたのは、人付き合いの中で「理解」という行為に価値を置かない世界ということでした。
ポスト・トゥルースによる孤独
情報において大切なのは、事実か虚偽かは重要ではない。
虚偽であっても自分に好都合の情報ならそれで良い。
本来、道具の使い方を決めるのは人間の側にあります。
大衆心理というのは、社会的な接点によって揺れ動くもの。現代で価値のある「武器」が「情報」であるかという所以はこれにあります。
それをコントロールしたり流れを作ろうとする立ち位置に自分が身を置くことに、人は快感を覚えています。言うなれば、情報社会のヒエラルキーの権力創出です。これがインフルエンサーという種族の性質と呼べるかもしれない。
組織や個人を貶めたいという潜在意識に基づいた、根も葉もない噂話や悪口であっても、それは見たい人たちの「価値がある情報」として認められてしまうこととなってしまいます。
デジタルという力を「個人」が獲得した現代において、その驕りは助長されました。SNSではネットを介したヒエラルキーを誰もが意識しながら気に入った話を正しいものとして拡散し、日常で秘められた他者への攻撃性や優越感を発散させる場所となっている。
そうして、自分にとって口当たりのいい情報の摂取し合えるコミュニティの形成が起きています。
この情報化社会における「生殺与奪の権」
本来、自分の価値観は自分にしか決めることはできません。
流行りや身近な人たちに影響されはするけれど、最終的な判断は自分次第。その自覚を持たないで、何かの情報に流されたまま、その合意の下でしかコミュニティを形成できなくなること。そうして成長や進歩を意識しないまま、他人に自分の手綱を握らせる生き方が蔓延しています。
しかし、それこそ情報を握る者による無意識の支配に都合がいい姿でしかありません。それは、たとえ自分たちが招いた結果であっても、その無自覚さが招いた物事の帰結を受け入れる精神が整っていないことを示しています。
人間は自らがお互いにお互いを啓発し、相互理解と共に高め合えるような関係を望む場所は望めなくなっています。
情報化社会の中で生きることとは、何を摂取するのか選び取る大切さを言い換えるのであれば「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ということです。
それを手放した途端、貴方は他者を認められずに「同質化」を迫るだけの生ける屍、ゾンビとなります。
『ウォーキング・デッド』のウォーカーってそういう意味合いから名付けられたらしいってことを知って書いてみた記事でした。