「完璧」「批判」「他責」のワルツを踊り続ける私たち自身が日本を追い詰めているオチ
「付和雷同」による働きと生じた亀裂
日本の戦後復興とは単純に「まだあれがない」「これがない」の必要最低限に無いものを片っ端から満たしていくものでした。だから、周りと同じラインに立って足並みを揃える必要があり「付和雷同」で上手くいったわけです。しかし、物質的なニーズから、こういうものがあれば「より豊かな人生があるかもね」というビジネスモデルは「完璧な仕事」を美点としてきた日本と致命的に相性が悪く、向かい風として立ち塞がることは避けられませんでした。
デジタル社会に移行してからは特に明確な「答え」が「見えない」時代に突入し、経済の土台である「文化」がまったく無かったのがまず一つ。
共に切磋琢磨する正しい意味での「競争」という言葉は、いつのまにか「同業他社や他人を出し抜くもの」となり、現行の手続きやすでに決まっているタスクを「減らす」ことを疎んでいる一方で、何をやっても「完璧主義」の旗印の下で全てに勝ち負けが付随するように「採点」されてしまう。
結果、モノやサービスが売れるようになるにしてもビッグネームがあれば価値を感じてしまう心理が生まれ、管轄や責任の所在という名分で開かれる「会議」そして「パイの配分」という、歴史観的にも「生産・開発」ではなく「管理」に価値を据えてしまう仕事に磨きがかかるようになりました。
これについては歴史学者の磯田道史さん曰く日本人の性質として四民が親方を求めて追従することから変わってない。足軽が目指した「武士」と全く同じという形容が面白かったです。
「戦場の摩擦」に耐えられない「逃避」と棲み分け
挑戦しなければ本来の達成や勝利することはできません。同業他社なんてどうでもいい。これからの変化やどんな小さな需要でも、無視せず、見逃さず、それに確実に取り組むこと。
それができなかった結果と言い訳が「楽してはいけない」「悪だ」「稼ごうとするな」という全体主義的な「二項対立の世界観」と認知の「同質化」でした。
「当事者」に耳を傾けるということ(種苗法)
種苗法改正に反対、種子法廃止を政府の民営化路線の一つと捉え、公的なものを民営化する「規制緩和路線」が加速化している点を議論したり不安視している声がありますね。
種苗の開発権を持つ者が利益を得られる権利を強化するとなれば、それは公共財の種子を「民間」に差し出し、引いてはグローバル種子企業に種子の独占権を与えることになりかねず、他国に流出することになると考えるわけです。規制改革推進会議などを通じ、種子企業が種苗に興味を持つと、それは種子がグローバル企業の参画も意味し、日本の農家が買わざるを得なくなる状況が生まれる。種子買ってる農家と自家採取してる農家では話変わるテーマで、消費者に支持を得れば在来種が駆逐されるリスクは高まるぞってなってるわけです。
「種子開発が儲かる構造にしないと辞める人が増える」「自家増殖が容易にできるようになれば、国内で種子の開発販売をしている中小企業が十分な利益を得られず廃業してしまう」と他人が作った品種育ててないで自分で開発しろと尻を叩かれているわけですね。
先ほどの完璧主義に基づいた日本人は日本市場での成功体験をベースにグローバルなマーケティングを考えている。しかし、世界の市場は日本の市場とは成り立ちも市場構成もまったく異なる。そして、今は日本人的な経験と勘と度胸で海外市場で勝てるという自信を喪失している状況です。
規制業種におけるレギュレーションは国内産業保護という観点では必要だったかもしれないが、新しい価値創出、ベンチャー企業創出にはブレーキとなる。
グローバル社会に立った産業として何があるのって話で、現実世界の「不確実性」もといクラウゼヴィッツ曰く「戦場の摩擦」にもはや日本人という種が目を背けて逃避したがる中、こうして毅然と戦っている当事者の方々がいるわけです。
努力に見合った対価を得られるようにする変化と共に、その人たちの両方の声に耳を傾けることも大事なのではないでしょうか。というか、本来は第一にこちらの声に意識を向けなければなりませんし、ニヒリズムで埋め尽くそうとする遠巻きの商人が嬉々として語ってることにしっかり疑問を持ちましょう。
余談として常々思ってますが作物もまた「命」であることを忘れられがちで人類史上、農耕牧畜を営み始めた時代から「品種改良」を重ねて食べられる実をつけさせ、人間にとって美味で「食用」に適した形質を得る変遷を経て、種子を遺して「人間と共存」しているものが今に至るわけです。
品質の良し悪しを区別することはあれど、「国産だから」「外国産だから」といった「0か100かの完全/不完全性に基づいた売り文句の追従」など、歴史において「起源」という「真実」は無く万物が常に移り変わる世の中でこれほど荒唐無稽かつ争いの源となる「持つもの」特有の驕ったテーマはないと内心危惧してます。自分の審美眼がひたすらマイナス評価やら偏った見方でしか物事を捉えられないような事態を防ぐため、「言葉」ではなく個々に目を向けてどのようなものか言語化する力を持たなければなりません。
「当事者意識」に欠けるからこその認知の歪み②(水道民営化)
気候や環境問題も「発展」の恩恵を賜る対価でまるでその因果関係が自分達とは無関係であるかのようにそ知らぬ顔をして文句を言いながら悪者探し。長い歴史上で地球全体にとって微差の変化かつ、動植物は環境に適応して見せている一方で、その自然の動きに追いつけない人間に都合が悪いだけのことなのに騒いでしまう。
目に映る範囲の「物質世界の盲信」その弱体化に無自覚あるいは楽観的に捉えて変化を嫌っている中、本気でそれ言ってるのかって思わされることが最近多いです。
水道事業の民営化も採算取れない行政サービスとしてやっているそれの「人工物の老朽化」は避けられないテーマですね。
こういう発信者の言葉を読んでて「ほらなその通り」と結論出したくなる方もいるでしょうが、どうかついてきてくれたら嬉しいです。「地方自治体が設備更新のための財源をしっかりと投じなければ」とありますが、人口減少に伴う水道事業の収支悪化と関わる職員の「高齢化」「人材不足」という「モノ・カネ・ヒト」の三要素そのものに大きな課題を抱えているのが大前提です。年々値段を上げていかないと維持は不可能になるなら国内だろうが外資だろうが大規模改修がどの道必要で、大幅値上げのための「批判」は火を見るより明らかですが、不変不動のように語っている「公共の福祉に徹している」のモノも限界だという問題意識が、「公共サービスはこういうものだ」やら「責任の所在」という二元論で語ろうとするあまり抜け落ちています。
https://www.suidou.city.sendai.jp/nx_image/05-kouhou/05-202-sendaisuidou.pdf
日本の政令市で水道料金の高さと格差を読み解いていくと原因は「田舎からのフリーライド」で、仙台市が宮城の他の田舎の水道代を「政令指定都市(中央側)」として負担する状態になっていること。
これを「今までのサービスと値段で供給するの無理だからね」って現実突きつけるのは公営には叶えられない事で、その歪な状態を改善できない以上、片手間で数えられる程度の人数しか住んでないような遠隔地の田舎メンテ費用も中央側の市民にタカる構図となっています。
民営化しようがしなかろうが「料金が上がり続ける」のが目に見えてる中、民営なら中央側だろうが限界集落だろうが、純粋に個々のコストに応じた予算を設定出来るようにすること。せめて負担の分配だけでも市場原理に則って「実態」に即するには必要な手段であり、こういった水道だけでなく日本全体に共通する長期的なインフラ再構築として「需要が小さく運用コストが高い地域を含めて避けられない値上げの中での価格是正」のための一つの解答が「民営化」です。
「運営権」を売却して実務は民間に移るものの上下水道の管理や最終的な経営権は自治体が持ったまま全ての給水責任を残された形となり。施設の管理体制も機器が壊れたらわざわざ入札せずに補えてデータも採れ、従来の無い袖の予算による運営危機から脱却するか否かのモデルケースにはなるでしょうし、確かに価格設定に関わる部分である適切な「管理監督責任」という手法やノウハウの継承面での課題はありますね。こんなふうに「現実問題」としてこういう一面もあるんだよ知ってましたか?という報告程度に私は留めておきます。
そもそもの責任は役所自体にあるのは事実ではあります。
外資は不安だなって思うのは当然ですが、民営化だからでとりあえず反対やら批判する大多数は前提として「民営化の目的=金である」「公共サービスとはこうあるべき論」やら「値下げor値上げ」「国内or外資」という「二者択一の問題」であると勘違いして囚われるあまり、数値やデータ上の話として現実感を欠如させながら物事を捉えたり想像すること、状況そのものを把握しようとする主体性が欠けています。
自分達の「額縁」に収めようとするあまり、当事者たちや有識者の懸念や向き合う姿勢に欠けてることを戒めなければなりません。せめて「外資だと国内企業の雇用が奪われないか」など取り組んでいる課題があるのにそれを通り越し、安全保障が云々と言って極右と左派がズレた額縁を一緒に掲げて団結するフェスティバルも「正義と連帯感」を感じて楽しいでしょうけど、当事者や有識者と同じ土台に立とうと調べたり取り組もうとしない「社会性に欠けた輩」が勝手に日曜劇場ドラマとして浸ってることは本当に不思議な感慨になります。
現実感の欠如した「議論もどき」
「正解」やら「悪者」を叩き出そうと躍起になりすぎて字面だけ追って真面目に物を考えたり想像できないから、曖昧だったり偏った認識のまま突っ走ってる自分の姿に疑問を抱かない。
内に秘めた昏い欲望を満たそうと見たいものが見れて満足したり、自分で調べることも片方の言い分だけを聞いて満足して「考えることを放棄」するパターンが現代では本当に多いです。
「レッテル」という言葉って聞いて久しいですよね。
それこそ各々の口当たりの良いコミュニティに閉じ籠っていることで、
自分たちの感覚が絶対的に正しいのだという近年の流れから、ほとんど風化しつつある言葉です。
あるテーマを取り扱っている時に自分達が一番この話を真剣に受け止めて考えているんだぞと自負している人間たちほど過激且つ非日常を求めています。屁理屈や優越感や論旨とは無関係な攻撃で「自分が勝った」形に見せしめようとする品性に欠けた行動が、そこで深い傷や禍根、恨みを買ってもデジタル社会では周りが称賛しているので「やって/言っていいんだ!」っていう勘違いが世の中に溢れました。
私はこういった相互的な同調を「ワトソン」を求めていると表現するのですが、受け手側は基本的に「自分が思ってることしか正確に理解しようとすることしかできない」からイエスマンや相槌役が心地良い。
そうして見たいことを見て聞きたいことを聞く欲望に忠実に「なんとなく」歩んだ結果いろいろな矛盾が噴出して、建前も理想論も従来の価値観も通用しない「世界に築かれた不遡及原則」に直面すると疲れ切って思考を閉ざし、変化というものを厭んで遠ざかろうとする忌避感。
そして大切な安全管理のための「検証や働きかけ」よりも先に「不可侵且つ不変を求めて責任の所在を問う」という他責思考。
そこから「逃避の居場所」が日本人のネットワーク上で生まれており、現実を捉える想像力を欠如させながら口当たりの良い棲み分けた疑似家族コミュニティに帰っていく。
行き着く先は死なば諸共からの隔絶された日本といいますか、鎖国して「江戸時代2.0」に突入すればその人たちは満足なのだろうかやら、上記に貼った民営化に関する論文の「机上の論破フォーマット」やらで思わず顔をしかめるなど執筆中ずっとムシャクシャしているのですが、東浩紀さんがこの歪さを言葉にしてくれてましたので今回は動画紹介して〆ます。
「考えなくなっている人」自身が「自分は考えている」という気になっているのは深刻で、それは考えているわけじゃなくて、自分の不快感や欲求を単に理屈付けして正義を気取れたり安心しているだけです。
反射行動に近いから、相手の言葉や状況を理解しようとせずに自分視点の理屈しか言わないから噛み合わない。特にテキストベースのTwitter/Xもやたら美化される風潮がありますが、そういう人間が持ち上げているから醜さに言及したり直面しないという皮肉に満ちている。
正解のない荒野を進んでいくためには、何か自分の歩みを進めるための信じる何かが必要で、沢山の情報処理してる気分になっても自分の見たいもの考えてることしか、自分の中に残らないのであれば意味が無い。
だから、考えさせない方に傾斜させて人を集めてモノを売る方が「得」というふざけたビジネスが起きているわけですけどね。