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今のデジタル社会が人間性を歪ませることに無自覚な私達とその警句【デジモン/MGS/シルバー事件】



僕たちは間違った道を歩んでしまった


「世界中の人たちとつながり、多様な感性や情報、意見の交換ができる」と『デジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲーム』『サマーウォーズ』のようなネットの可能性を説く色んな作品を観ながら思い描いてきた僕たち」は、今思えば超牧歌的な未来を想像していた。

が、こうして20年程の歳月が経ってみると、まったく真逆の世界になっていて「自分に都合のいい情報ばかり吸収して所属を決めて同質化しながら、他者を攻撃する世界」になってしまった。
この絶望感は「個人が発信能力を得ることで対話を重ねて、人類は前に進める」と信じていた幼少期の自分に限らない、世界中のオールドインターネットに生きた人々がかつてのネット空間に価値を見出したからこそ味わっている感覚です。

そして、そんな過去に夢を描いた人たちにとっては現代の中で何より不快かつマズイことが可視化されているのが、老若男女が朝から晩まで四六時中スマホやPC片手にSNSやらYouTubeの言論空間にのめり込む時代になってしまったことで、ネットで調べる能力が得意・不得意に分かれる「情報リテラシー」を説く必要性をここまで深刻に考えることになるとは思ってもいなかった。
口にするまでも無いと思ってきたことが、どうやらそうでもなかったと思い知らされていることにあります。

僕もそうですがSNS以前のインターネットが好きだった世代は「ネットサーフィン」という言葉がまだ現役だった頃、誰かの発表する場のない想いを込めた創作物や書き綴ったものが釣れて「他意」も「打算」もなく「賛辞」を送れた時代でした。
昔の提示版サイトや動画にコメントがダイレクトに映るニコニコ動画の在り方は『電車男』あたりでも表現されていた気がしますが、どんな声も「平等」に可視化されて「発信者が間違ってる」と思われたらしっかり声に出されて擦り合わされるなど「インタラクティブ(双方向的)な関係性」から自らの思考に没入して考えを深められることでした。

ああいった時代のインターネットの良さをどう現代にアップデートするかが本当の役目だったはずが、何を勘違いしたのか「アテンションエコノミー」と広告業としての「マネタイズ」のせいで情報の高速化を促したSNS空間にネットが流れていき、まさかの人間に「考えさせない装置の普及」させたのが私たちが生きている時代なわけです。

「解答」を情報社会に求める異常事態


まず第一に情報とはアップデートするもので「執着」するものではない。

この大昔からの大原則を知らないままビジネスコンテンツに過ぎなくなったSNSやYouTubeを「答え合わせ」に使ってる人が増えていくと、世の中が確実に頭おかしくなっていきます。

「世界のデジタル化は、人の弱さを助長し、それぞれだけに都合の良い『真実』の生成を加速している。社会に満ちる『真実』の山を見てみるがいい」

「『高価な兵器が人道的に人を殺し―』」
『犯罪者の人権は被害者のプライバシーにより丁重に扱われ―』
『稀少動物保護の寄付金が集まる傍らで、貧困に苦しむ人達がいる』
「…誰もがこう言われて育つわ。
『他人には優しくしよう』『でも競争相手は叩きのめせ!』」
「『お前は特別だ』『信じていれば夢はかなう』」
「『だけど成功できる人間が一部だけなのは、初めから明らかよね…』」

「君達が『自由』を『行使』した、これが結果だ。
争いを避け、傷つかないようにお互いをかばいあうための詭弁―
『政治的正しさ』や『価値相対化』というキレイゴトの名の下に、それぞれの『真実』がただ蓄積されていく。」
「衝突を恐れてそれぞれのコミュニティにひきこもり―ぬるま湯の中で適当に甘やかしあいながら、好みの『真実』を垂れ流す。」
「噛み合わないのにぶつからない『真実』の数々。誰も否定されないが、故に誰も正しくない。」
「ここでは淘汰も起こらない。世界は『真実』で飽和する。」
「それが世界を終わらすのだ。緩やかに。」

https://www.youtube.com/watch?v=o2FISkH74a

以上は2001年に発売されたPS2用ゲームソフト「Metal Gear Solid 2 Sons Of Liberty(MGS2)」のとある一場面を抜粋したものです。

この作品はまだ「ネット」というものが少数にしか使われていなかった2001年の段階において情報化社会を痛烈に皮肉りながら説明しており、凄まじいのがよくある検閲は悪いことだみたいな義憤をチラつかせてそれを覆すように「人間の在り方」によって歪められるデジタル社会と現代の様態を言い当てている点です。

現代では何かを創造したり達成感することより「承認」「他人からの評価」によって満足を覚えることがお手軽になりました。
著名人やソーシャルメディアを見ながら「自分の立ち位置を決めている」から、どれだけ過激で何かを批判するものを見ていても「自分のメンタリティに沿った評価を下してる」光景に気持ち良くなれる。
そして「いいね」を通じて承認されている光景に感化されて「やはりそうか」と正義を確信し、自己投影して充実感やら幸福の源として扱うことを覚えました。

ネット社会では擬似ニュースとビッグデータの合体という怪物が野に放たれ、フェイクニュースの洪水となって誰も制御できなくなる。特にSNSやYouTubeは道を間違え、自分が日頃不満に思っていることに対していかにもそれらしい解釈に入り浸ることで「世界」や「他人」と触れ合わない欲求を満たすためのモノになりました。

我々が日夜やっていることはニュース閲覧の延長線だと錯覚しているようで、実際は座布団をもらえる大喜利でPV数(ページビュー)を集めるコンテンツの中で自分をスッキリするための何かを漁ろうと、他人の発信を覗いて満足感を覚えること。
世の中で何かがドブに落ちて汚れるのを虎視眈々として待つのが趣味と化す場所に過ぎません。
特にTwitter/Xを中心としたインターネットはトレンドやタイムラインを追って目立ちすぎた人や失敗した人にその時が来たら石を投げられる姿を見て「自分はマシな、まとも側の良い人間だ」と安心している娯楽に夢中になっているのが私たちの実態です。

こういう発信を漁ることはどんなニュースが流れてきても、善か悪か等の二者択一でしか価値判断ができなくなり、「問題そのものを解決する」ことを考えるよりも「自己肯定してくれること」を中心軸にしてしまうようになる。
結果として、SNSを覗いて何かを得ている気分になる人は大抵何かを責め立てている言論を好んで、その空気に流されて物事の本質を見抜いたり、解決したりする力を見失ってしまう。

人間は社会的な生き物だからこそ「信じる」という進化論的な合理性を持って生まれている。合理的選択理論に則れば、今の世界はもっと健全に前に進んでるはずだって義憤に駆られるのも理解はできるのです。

しかし、そうして今ある現実と、在るべきだと思っている現実の間の「ねじれ」を解消しようとすると人間の性質として『フィルターバブル』に行き着く。皮肉にも、社会や政治に関心を持つ人、それも知識のある人ほど陥りやすい傾向で、不満があれば『何か裏があるのではないか』と考えやすい。
だが、人間という生き物に対する過大評価から他人の間違いやミスを認められないようで、いざ自分事になると棚に上げてしまって自分自身を正せないと、見たいものを見せてくれる存在に誘導される。

こういった人間たちを中心に影響力を広げているのが、軽佻浮薄な様でデモナイズするニュース気取りの言論空間で必ず「仮想敵」を作り出し、そこを攻撃対象にして民を集めるやり口は歴史的に何度でも通用することを実証している。
「自分にとって都合のいい情報だけにアクセス」「見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じていたい」というのは、有史以来人間が精神を安定させるために続けてきた特性でそこから争いが生じたわけですが、流石に人類全体がこれに一斉に覆われるのは「異常事態」としか適切な言葉が見つからないです。

情報に一瞬でアクセスできるようになったことでこの傾向により拍車がかかってしまい、本人は自分の疑問や納得したい答えが補強されて“また一つ賢くなった”と勘違いしがちなんですが、やってることは機械のアルゴリズムに則って何度も似たような情報にアクセスして「自分は正しい、大丈夫だ」と安心しているだけ。
知識も考え方も自分事として何一つアップデートされないので、頑固で柔軟さのない思考回路になってしまう。

その受け売りを現実社会で「発信者の伝道師」として触れ回るようになったらもはや危険な兆候で、その承認欲求や魂胆を看破されて、認めてくれていた相手からも距離を置かれるなど、一時的な快楽があれどその先には不幸しか待ってません。

インターネットが普及して日常的に発信することによって賢くなるという前提で考えてきたそれは幻想で、SNSの普及は「人類のメンタルや知的水準を間違いなく下げてる」って昨今繰り返し言われてる中でも、その意味と向き合おうとしないままこれほど懐から手放せない様になるというのは、おそらく誰も予期できていませんでした。

それだけ拾った情報から自分が承認されることの気持ち良さがあまりに大きいために物事を考えるよりも、何かを叩かれることにスッキリしながら誰かに承認されたり安心感に飢えているということ。
で、世間の目や見栄に価値を置く文化である日本はこれが顕著だからこそ、非常に自己中心的な物の見方や序列といった「勝ち負け思考」などネットの悪影響をダイレクトで受けている。
中高生がネットの受け売りを鵜呑みにして家や学校でドヤ顔で語ってたら当然距離置かれる時代から、まさかの老若男女問わず自分が信じたいものは100%肯定して、その敵に当たるモノ・コトは100%否定する価値観で生きている否定的・攻撃性が増している幼児性というか「人間性の歪み」がメチャクチャ顕著になってるとずっと感じてます。


現実を「従」とした承認欲求による「コスパの良い娯楽」


自分がどう見えるかを気にし始めた途端に「物と事」が自分を偉大に見せるための道具に成り下がって、本質についてまったく考えられなくなってしまう。

自分たちが考案しているクリエイター界隈のビジネスラインでも、人と人が繋がる空間について考えたり「実空間に居場所を作る」ことの意義をよく口にするのですが、そもそも「コミュニティ」や「ハッシュタグ」に価値を据えたり目的に生きている人たちって、自分が目にするものや手に触れるものの肌感覚に関心をあまり払わないです。

「映え」という言葉が象徴するように、「サイバー空間」を主として「実空間」が従の関係にあるわけです。

だから「問題そのもの」ではなく
「問題を語ることで誰が自分を一番気持ち良くさせてくれるか」の方に目が行ってしまうし、それを現実に持ち帰ろうとしてしまう。

SNS的な相互評価ネットワーク、インターネットの中で生まれる物語は、自分の中の幻想を肥大させるためのツールになりやすい。
人は現象を「物語」として認知し、そういったフィクションを共有することで国家社会を生み出し、発展していったと言われている。

そして物語というものは往々にして因果関係やら起承転結やら、理屈にかなっていることが前提なわけで、なんで俺が思うとおりの「公正」が成されてないんだよ。クソ物語は誰のせいだ!」って方向に行き着く。
つまり、自分の肯定が第一だと無意識的に価値基準を据えてしまい「他人のイデオロギー=自分を肯定してくれる物語」に乗っかるほうが何も考えなくて済むし容易く楽しいものになる。

だから自制心や自浄作用が働かないデマやハラスメントの温床になろうと何かを袋叩きにしたがるわけで、それは生き方が問われる面もあるので中々治ることがありません。
これは元々「特定のコミュニティの中で敵か味方かでジャッジしたり繋がりに所属して人に囲まれて安心する」ということを、人生の最上位に置いているか、置いていないかが結構分かれ目かもしれません。

特に男性性は「自分と同質あるいは低い位置にいるモノ」を所有しようとする本能を持つ在り方だから、共同性を確認するための飲み会などで相互で確認し合って「俺たちは仲間」という「量的」な確認、つまり誰でもいい帰属意識を認め合いたがる。

だからコミュニティへの帰属意識やら他者との比較といった長いものに巻かれることに価値を置く「内面が自立しきれていない人」ほど「自分の人生を肯定する物語」を求めようとするわけで共有する物語である「社会的、政治的な正しさ」というのは実に便利に映ってしまい、自分を肯定したいっていう欲望から悪を探して攻撃するワイドショー気分になって自分の問題には何一つ考えなくて済むので「コスパがいい娯楽」になる。

「ネット空間で世の中のあれこれを覗いて物申す系に傾倒する」のは現在の自分を肯定しながら快楽を得るのに最もコスパが良い娯楽で、それが分からずにトレンドに乗っかって、自分を気持ちよくさせてくれる物語を見つけようとするあまりアナリティクスで分析された「都合の良い物語」に食いつくと見事に“闇落ち”していく。

実生活への不安や不満がある人、特に自分を常になにかで比較している人は、現実とのギャップの原因を他者に求めて、行き着く先の一つが“弱い立場からの正義のナラティブに憑りつかれる”という歴史の愚を繰り返すことになる。
学者に医療やら資産家、大企業が悪とされる言説はどういう層が惹かれるか自明の理で他の記事でも触れているし言及しませんが「正しい私達と間違った奴等の世界」というストーリーを栄養にしているわけで「是々非々」で考えるということを忘れたというか、そんな理性を持ち合わせていない人こそが拡散しながらPVを伸ばしてくれる良いお客様になってくれるから、自分がいつの間にか取り込まれている文脈や意図に気づけない。

ネット上では自分を省みろと促してくれる人はいないので無自覚なまま突き進むわけです。

現代社会で命の在り方を忘却した人々への警句

今のネット空間に囚われている限り、自分の人生としての物語を真の意味で紡ぐことは困難なのに、ふざけたことに、それに目を向けさせないコンテンツが流行ってしまっている。

YouTubeもテレビ的な「出演者の話を見ていると、自分も芸能村の友達の輪の中にいる」と錯覚できるような馴れ合い的な楽しさを売りにするのは趣味の範疇で収まります。ただ、話す速度がやたら速い人も、 人によって間を編集してカットするのも含めると、その人の「意図」が表現されているわけです。
ニュースや動画を視聴することを好むようになった人が消費習慣が変化している中で「これが大事これが大事」と言うように同じSEを付けながら字幕テロップを出してそれを見ながら受け取るだけの表現は、根本的にメディア以上に学ぶ機会、人間の意識を奪っているものになっていることに気付いてほしい。
原文を気にしない私たちの習性から、字幕という加工を通して「嘘字幕シリーズ」という映画の内容を弄る娯楽とか昔ありましたが、フェイクのせいで真顔になる事態が今起こっています。

by 『シルバー事件』1999年製作 

カメラ目線のトリミング(切り取り)編集頼りで情報を一字一句相手に聞かせて刷り込みしているだけの冗長かつ説明口調で感情を「演じている」ような受け売りの何者でもない輩の情報というアクセスでも、人間は弱いから自分の口当たりの良い、都合良い話なら聞かせてくれといちいち聞いてしまう。
で、何もクリエイティブしていない輩まで自分より稼がせてしまう。
その人が信頼できるか否か好き嫌いcomあたりで名前検索掛けてみると賛同者が多い太字の意見で割と冷静になれるかもしれません。

https://suki-kira.com/

社会をダメにしている真の元凶の一つとしてデジタルの言論空間を「考える」ことから逃げて安心するための装置としてしか使えてないのが我々が自覚しなければならないです。

他人に石を投げるのも、口当たりの良い情報しか見ないのも「今の自分のままでいい」と安心したいだけでしかなく、自分達が小遣い稼ぎや逃避先として楽しんでいるものを「発展性がある」などと言い訳を重ねている状態です。
そうして仮のことを仮のものとして保留したり、別の前提を同時に比較したりできない「可能性」という状態を許容できない姿勢が「答え」ありきでしか考えたり話ができない日本人はこの問題が顕著です。
難しい概念や物事に取り組んで来た経験があると、世の中には自分より賢い人がたくさんいて、彼らが長年築き上げてきたものを信頼するようになるし、理解に努めようとすることができる。

しかし、そういう思考や経験がないと宗教を信じてるわけでもないからこそ「他人」を悪とする「いつもの二者択一の世界観」で判断したがるあまりに「論理性に基づいた科学的な話と無根拠なトンデモ話」の区別もつかなくなる。
そして、正しい情報リテラシーを身に付けられていないから危機回避の本能やら声がデカい不安を煽る方に流れて、自分は真実を知って語っている少数派という他人と比較して気持ち良くなれる「ポジション取り」に誘惑されて情報の洪水に溺れる。

承認欲求やらエゴイズムやら内に秘めたナルシストに学歴やらいろんなコンプレックスの捌け口となり、ヒューマンランキング逆転現象の願望に歪められた認知世界に覆われているのが今のネット空間の現実です。

単純に正しい認識をしてもらう為には手に入れやすい場所にあったりするのに対して、荒唐無稽なコンテンツは自分から探さないと出てこなかったりする。 人は自分の力で手に入れた物に対して「愛着」が湧きやすいから、どれだけ破綻してる物でも自身の力で手に入れた物だから疑いたくないし、脅威を産み出す「悪」を特定できたと感じると不安や恐怖も和らぎ、世界がコントロール可能であるという気分になってくる。

しかし、それは紛い物であり、信念の仮面を被って人を意のままに操ろうとする忌むべき存在でしかありません。
あなたが帰り道に迷った時、それはしたり顔で近づいてきて、あなたを真に帰るべき道とは異なる道へと案内する。
そしてあなたが全てを失い、砕け散ったとき、それはもう影も形もなく消え失せているだろう。

何度も接触するだけで好意を持つという人間心理の仕組みもある。
自分の考えだと思ってるものは本当に自分のものなのか?
目の前に書かれた情報は個人の意見か、事実関係を問わずに感化させる洗脳目的のものか?

これを稚拙な言論空間の中でいちいち考えたくないからこそ僕は数少ない友人ともSNSで繋がろうとしないわけでやはりビジネス発信に徹しており、他人のを覗くだけでも心を歪ませたり生きる充実感を奪う元凶なので止めた方がいい。

「議論している」という欺瞞で誤魔化して「考えないためのインターネット」として自己完結的な手軽な精神安定剤としてしか使えていない人間が、あれが悪いこれは悪だと何か他責できるモノをひたすら探し続けて誰かのPVビジネスに貢献する毎日を人類が送るなんて誰も考えていませんでしたからね。

そして、それを看過して回避できなかった「責任」と「報い」を我々はこれから先も受け続けるのだと思いますし、その一方でひたすら「○○はおかしい」やら他責する光景が続いていく地獄巡りなんですけど。ダメだったというなら反省も対策もしないといけないのに、価値観のアップデートのしようが無いとその自覚がないから反省のしようがない。

世界中がそれに侵食されつつあるし、不安につけ込む形で敵を定めて貶めようという言論の潮流はSNSの中で最大限に活用され、自分たちを賢く見せるようなパフォーマンスでお金を集めると共に、何か他人を見下す快楽を提供するようになりました。

根拠も論理性も破綻していようが「これを批判すれば承認されますよ」というPVビジネスの一環にあらゆる情報が組み込まれてしまったことで、知らないことを話して人に認められたいってそういう承認欲求を抱える人ほど、間違いだらけの講釈垂らして何かの誹謗中傷しようが、他人よりも「自分が頼れたり優れた人物」と見てくれる承認欲求の快楽を手にするためなら、歴史の教えを忘却して快楽物質で脳を満たすことに無我夢中になってしまう。

「動機無き他者」やら「bot化」など色んな言葉で形容されているように情報の精度や内容ではなく、タイムラインやアナリティクスで分析された似たり寄ったりのオススメを追うだけなら「イエスかノーか」だけなので負担がかからないし楽しくなる。
オールドインターネットを知る人たちは、呆れを通り越した無に近い感情で見ているわけですが、あまりに分別無い自分勝手な振る舞いにブチぎれたのか「お前ら大の大人がネットやってる時の精神状態ヤバいからな」と誰かが「ポルノ依存症」だと切って捨てたわけですが。


事実を認めたり先を考えれるなら「愛国」でも「衰退」でも良いんだけどポルノって言われてるように、自分が言いたい事言って満足して誰の話も聞かないままそれで話は終わりってのが問題です。

「吸収しやすい情報を見ることが学び」だと思っているほど陥りやすい錯覚に酔う。職場や学校で誰それの噂話して盛り上がることに近しい、何でもいいから「お祭りして酩酊」出来れば幸せな人たちによる二項対立やら「論破フォーマット」が跋扈して持ち上げられる。
そうして「メディアは嘘つきで私たちは真実」と口にしているアカウントはPVビジネスの収益目当ての日和見主義やら、身近な何かを叩くことに夢中になるあまり中国ロシア辺りの雇われアカウントを熱心に覗いて食い物にされているオチに気付かないという、小説よりも奇なりな現実がある。

後世の人々は「自分」を見失った我々をどう捉えるのだろうか

外しても責任取らなくていい輩が煽りに煽って踊り狂う未来永劫変わらないこのミュージカルを続ける中で「世の中が悪いのは~のせい」「~さえ排除すれば世の中は良くなる」というフェイクやらの典型的なカルト思想のやり口でも、自分の目の前にある現実として結び付かなかったり、何も感じたり考えられなくなってるのは「余裕の無さ」が原因でもあるのですが。

「エピソードベース」の情報と「エビデンスベース」の情報を混在させて物事の分別がつかなかったり、政治・経済・宗教など無意識下にそれらの文脈に巻き込まれている場合、自分が改めたり変わる必要が無い不変不動であるという前提の上でコミュニケーションを取っている無敵の人ぶりに無自覚になる。

「真実」と「事実」は違う

自分が「被害者」に当て嵌まるストーリーしか垂れ流されないSNSで四六時中くだらないデマや大喜利を真に受けて自分が向上するツールであるかのように持ち上げるのは快楽物質目当ての娯楽に過ぎず、歴史の必然として「見たいものを見て信じたいものを信じる」という人間の習性はこの先も自ら変えていくことはできないと思うし、快楽に打ち勝てないなら「そういう人生がいいならそれでいいんじゃない?」としか言えない。

けど「本当に身内を大切に想ったり未来を望む」ならそういう人をなるべく減らすことと、そういう人たちの世の中への影響力をなるべく下げるための工夫がいる。せめて邪魔立てしないように。
ただ、これを実際に掲げてみようと「情報精査の仕事」に応募して手を出したらあまりの酷さにストレス感じまくって体調壊しかけたり、先月の記事からずっと頭おかしくなりそうだったのは御覧の通り。

自分の数少ない高校時代から友人だった人が見事に闇に呑まれてしまったり家族も危ういので、ここ数か月の記事をご覧の通りストレスやらで心乱されっぱなしです。
視野が狭くなってるところをつけこまれるのにSNSは好都合というのを周知するのもそうですが、厄介なことに、それ系を信じたくなるくらい脆い状態そのものが問題だから、否定したところでより自分を補強しようとのめり込む悪循環で根本的な解決にはなりそうにないという二重苦。

否定的になってマインドコントロールされてる人みたいになってる原因として「承認欲求」「他人との比較行動」がまず挙がるし、そういう人は「自分の言ってることを否定=自分の存在否定」になってしまってるから 正しい知識や別の視点からの情報もすべて反論=否定と捉えて、しかも一度反論すると敵認定されるから何もかもが許容できない無敵状態に陥る。
他人の言葉が聞こえなくなるし攻撃的になって全く聞く耳持たないから、それを突き付けられると本当にキツいです。

そんなことに拘ったり価値を据えても人間は決して救われないし愚かなことなんだぞって、古今東西のあらゆる作品やら歴史が教えてくれてたんですけどね。

「それは君自身の言葉か?」
「スネークさんが言ったことじゃないの?」
「 ..... 」
「それが君の無能を表している。君に選択の自由を行使する資格はない」
「違う!俺は自分で…」
「『自分』なんてものが、あなたにあるの?」
「君が思っている『自分』なぞ、せいぜい身を守るための言い訳に過ぎんのではないか?」
「世間に溢れている出来合いの『真実』の中から、その時々に気持ちよく思えることをツギハギしただけ」
「あるいは、もっともらしい権威の下に身を寄せて手に入れたつもりになっている借り物か......」
「違う!」
「うん?誰かにそう言ってもらいたいのか?良かろう。言ってやれ」

「あなたは立派よ、ジャック!自分を確立してるもの!!」
「くそ......」
「どうした?迷ったのか?では『自分探し』でもしてみるか?」
「何も見つからないと思うけど」
「だが、そうやって自分で作った『自分』にも関わらず、何か都合が悪いことが起きると、それを他の何かのせいにする」
「俺のせいじゃない。君のせいじゃない」

「そしてまた別の口当たりの良い『真実』を探して、そこに『癒し』を求める」
「今まで利用してた『真実』をあっさり使い捨ててね」
「そんな君に『真実』を選べるのか?」
「その自由を使う資格があるの?」
「君は自由を食いつぶしている」
「あなたは自由に値しない」
「世界を逼塞させようとしているのは我々ではない。君達なのだよ」
「本来、個は弱いけど無力じゃない。むしろ世界を壊すほどに危険な存在なの」
「そしてデジタルのテクノロジーがさらに個を強くした。それは今の君達には過ぎた力だ」
「何を残すかは、何をしたいか、そのために何をするか、ということ。」

https://www.youtube.com/watch?v=o2FISkH74a

人々に向けられた「個」の発信すらも「編集」によって「思考というプロセス」を排除されつつあり、刺激性に満ちたもので自分を補ってしまうなど中毒性に満ちている。そうして、ネガティブな衝動に言論空間が覆われると、自身の向上心や改善するモチベーションと正反対の事に夢中になる。

自分のことを考えなくて済ませたい人ほど、物事は自分を納得させてくれるスケール且つ簡単に変化や改善できると思い過ぎて「自分とは何者で、何がしたいんだっけ」と尚更袋小路に追い詰められる。
かといって、深く考えるのも面倒になってしまう。

哲学者パスカルが「人間は考える葦である」と述べたように、人間と動物の違いは、考えるかどうかにあると言っても過言ではありません。
人が変化しないまま、技術だけがどんどん進歩して未熟な精神性に沿わせようと誤った道に突き進んでいるからこそ、今はデジタルに過度に入れ込まないように、身近な人間関係を大事にして自己研鑽に努めることが必要です。

そして、他人ではなく自分の尺度で幸福度とは何か測れるようになることです。
じゃなきゃ多分、誰とも何も共有できないし一生孤独のまま何も残せないで終わりを迎える人々が続出すると思ってます。



変化とは「与えられるもの」ではない

論理ではなく「イメージ」によってのみ物事を考える群衆は「イメージ」を喚起する力強い「断言」や「スローガン」によって「暗示」を受け、その「暗示」が群衆の中で「感染」し、その結果群衆は「衝動」の奴隷になる。群衆心理のメカニズムとして「これがあなたの姿ですよ」とギュスターヴ・ル・ボンは説いている。

繰り返し筆者の記事で語ってきているが、本気で物事に取り組んだり考えている人は断定せず「0」「1」の結論にたどり着くことはまずない。
どちらかに100%偏ってしまっているときは、その時点で“思考停止”してると自覚した方が良い。
分かんないことは分かんないって素直に認めた上で自分の視野や知見を広げる為にも、思考力と感覚を高め続けることによって人間の歴史はその上で成り立っているし、その人たちの取り組みが何かを生み出して誰かの命を救うことにも繋がっている。

正解不正解、敵味方や白か黒かをはっきりしないからとあれはダメだとこき下ろしたり他人を無下にしている輩は「現代人特有の万能感」に囚われて、ああしろ、こうしろ、とただ言葉を投げかけてなるべく自分が高い位置から、自分の見せたい部分だけを見せ合うだけの関係に精を出したがる。
が、それは他人の眼に振り回されて価値がある人間なのだとマウントに夢中になってるだけ、自分を見失ってるだけで不自由な生を生きることにしかならない。

我々が思い出さなければならないのは生きること、それに付随しているヒト・モノ・コトの本質で、映画ドラマや音楽、ゲーム、漫画やアニメといったフィクションの力を借りると、人間が認識しにくいものを可視化してくれる。
その快楽のメカニズムを解明すると、そこに描かれてきたものから自分の感性や感覚を深めて何だったのかを自ら言語化し、思考を膨らませることが可能になることにあります。

神様どころか共同体としての国家も貨幣も究極的には共同幻想、つまり妄想の産物で、虚構と現実は明確に仕分けられているわけでは無い。
「人間」と「世界」の関係を考えるにはむしろ虚構こそが、人間の世界にとってもっとも厄介な現実として表出化している。

目に見えて手で触れられるものだけが、世界だという考えのほうが甘いと言わざるを得ないわけで、
だから僕は人間のクリエイティブに今も昔もずっと一番関心がある。

自分の考え方や感じ方が変わり、人格形成や行動が変わるのはこれらを通してきてが大きかったです。
そして自分の視点が変わり、意識の拡大が起こっていくまでのことを「変化」と言います。

自分の内側で階段を「昇り降り」を繰り返しながら起こっていくもので「これを見ればあなたは「変わる/稼げる/目覚める/勝ち組/賢い」というのに右往左往するのは与えられた「リップサービス」と「自己肯定感」という提供商品に過ぎないしなにも変わらない。
都合の良い「目覚めろ」を悪用されすぎてブチ切れた『マトリックス』の監督は「くたばれ」と吐き捨てた模様。

逆に言うと、そういうのに振り回されるあまり知らない人が誰かに与えられた、教えてもらったものに拘泥する人がいたとしたら、すぐに投げ捨てた方がいい。
既存のイデオロギーへの依存で誤魔化せないものが、人間の心の中には存在するという確信があるから、我々は古代から虚構の世界である映画やら物語を大事にしてきたんじゃないのか?
いま一度立ち返ってみて欲しい。

結局、信念の問題で何を信じ、何を守って生きているか。
「白か黒か」や「他人との比較」ではなく、もっとその曖昧な世界で生きていくことを念頭に置く努力。
自分が美しいと思えるものの追求こそが自分の「幸福度の解答」を見定めたり、今の世界を前向きに各々が生き方を定められる気がしますが、どう伝えていければいいのかというところで幾つか考えさせられたものをいくつか紹介して今回は締めます。


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