おばあちゃんたちが暮らす山の中で、AIと共存する近未来を見た。
会社から独立して仕事をする良さの1つは、自分の好奇心や必要性のままに、「きょう誰と何をするか」を選べることです。自由な環境に身を置くと、大切だと思うものに時間を割けるので、選択力が磨かれていきます。
昨日はおばあちゃんたちと山中へドライブ。その中で、「AIと共存する未来」の片鱗が見えてきました。
たくさんのおばあちゃん
いつもぴったり寄り添っていた祖父を亡くした後の祖母が心配で、毎月広島に通っているうちに、仕事ができたり、祖母のコミュニティに関わったりすることが増えてきました。
山口に住む祖母の義理の姉やその友人、ご親戚の方々にずいぶん可愛がっていただいて、「次はいつ来るのか」と乞われるので、ここ数年は2〜3ヶ月に一度はどこかへお邪魔しています。
血縁関係のないおばあちゃんが、私にはたくさんいるのです(90歳近いと、ほとんど女性ばかり)。
ベーシックインカムとアウトソーシング
老いることは、行動に制限ができること。祖母は都市での暮らしですが、山口のお宅は山の中。足の悪いおばあちゃんが一人で暮らすのは大変です。制限ある生活を支えていたのは、2つの要素。
働けないおばあちゃんたちの生活で重要なのは、ベーシックインカム。年金と祖父の残したストックビジネスの収入。ときどき遺産相続と資産売却、あとは貯蓄。おじいちゃんたち偉い。仕組みを持っておくことが肝要です。
身体的な意味で困難が伴う生活の要は、アウトソーシングとテクノロジーへの依拠。オール電化とたくさんの機器。テクノロジーが追いつかない領域は外注で、運転手さんとお手伝いさん。周囲の支援者に記憶装置として機能してもらうことも。それにより地域で雇用も生んでいました。
面倒なこと、自分でしなくても良いこと、できないことは、こうして無くなるのかと興味津々でした。
何もしなくて良い環境で生まれる「不満」
そんな生活を観察し続けると、彼女たちが「それでも求めるもの」が見えてきました。
人が面倒を排除した先で「物足りなさ」を感じて欲するのは、「ありがとう」と言われること。「教えて」と頼られること。共に過ごす人がいること。「楽しいね」と笑うこと。そこには、本当にシンプルでウェットなことがありました。この反対側にあるのは「孤独感」。オズボーン准教授のレポートが示すのはこのことかと首肯するばかりです。ここも慣れたら、ある程度はAIスピーカーが満たしてくれるのかな?
おばあちゃんにもらった、未来へのヒント
彼女たちの解決方法は「イベントの開催」でした。旅行やお買い物にコンサート。自宅へのカラオケ設置。お料理を振る舞うことなど。きっと私を呼ぶのもこの一環なのでしょう。
不便さを取り除いてできた余白に必要なのは、「他者巻き込み型のエンターテイメントを作り出せること」でした。言い出しっぺとそれに乗る人。
それでもまだ残っていそうな心の余白には、私には、用事がなくても会いに来てくれる人が何人いるのか? 私は誰の役に立っているのか? 日々に喜びを感じられるものがあるか? きょう何回笑ったか? そんな問いが流れているように見えました。
祖母のコミュニティにいる方々は、「楽しむ」と決めている人たちばかりで、そのスタンスにも学びがありました。特筆すべきは、驚嘆力と共感力。面白がって参加するノリの良さ。小さなコミュニティでは、悪いところの指摘や、知識の誇示も証明も必要なくて、「そこに『驚きと感動、喜び』を見出す」スタンスが大事なのだと思います。
ストイックに働いていた会社員時代と比べて、私の大きな変化の一つは、「楽しさで自分を満たす」のを許せるようになったこと。
せっかくの自由に時間をデザインできる生活。おばあちゃんに学ぶなら、日々をしなければならないことや大切なことだけに時間を割くのではなく、そこに「楽しさ」を見出すセンスを磨くことが、豊かな未来につながるのかもしれません。
今回のケースは、とても条件が整った限定的な田舎コミュニティのお話。ベーシックインカムとテクノロジーが、必要なところに満遍なく届くことも願いつつ。