【短編小説】腸詰奇譚 2話
銀巴里その1
小林定子は銀座7丁目のシャンソン喫茶、『銀巴里』で働く女給だ。知人の伝手を頼って東北地方から親元を離れ一人出てきた彼女は、垢抜けないその仕草やそれを気にしない大らかさが周囲に好意的に受けとめられていた。
「ふふふ。定ちゃんは今日も元気そうね」
彼女は銀巴里のボーイでありスター歌手である丸山にも「定ちゃん」と気さくに呼ばれて可愛がられていた。
「あ、ありがとうございます。私なんて元気なだけが取り柄ですので」
そう言って落ち着かない様子で意味も無く定子は髪をなでつける。
くっきりした眉とアーモンド型の目、すらりと伸びた鼻梁に、エロティックな唇と、定子から見ても丸山の容姿は日本人離れしていた。性別不詳として売り出しており、中性的な美貌の丸山は男女いずれからも人気を博していた。
実の年齢で言えば十六歳の丸山の方が明らかに年下だったのだが、眉目秀麗で性別不詳、耽美な外見の丸山が「ちゃん」付けで呼んでくれることがむしろ嬉しくて、定子は喜んでその呼び名を受け入れていた。親元を離れての慣れない都会であるが日々懸命に、そして明るく楽しく定子は働いていた。
そんな定子がその日は珍しく朝から不調そうであった。
いつもはハキハキと元気よく話す彼女がずいぶんと口数少なく、顔色もこころなしか青ざめているように見えた。
丸山は目ざとく定子の様子に感づいていたが、忙しくて声をかけることが出来ていなかった。
その日は客として歌舞伎役者の十七代目中村勘三郎が一人の男を連れてきており、丸山は「ステージの後で紹介したい男がいる」と勘三郎に呼び出しをうけていたのだった。
丸山は歌い終わってステージを降り、店の奥に座っている勘三郎の元へと向かう。勘三郎の向かいに座っている男は禿頭に黒縁眼鏡のぱっと見は冴えない風体だったが、しかし眼鏡の奥から丸山を見据える眼光は鋭く、人の視線に慣れているはずの丸山も一瞬ひるんだ様子を見せた。それに気づいているのかいないのか、勘三郎は丸山に声をかける。
「やあやあ丸山くん。先ほどは素晴らしいステージだったね」
「これは勘三郎さま、お褒め頂きありがとうございます」
優雅に一礼する丸山に隣に座るように促してから、勘三郎は目の前の男を丸山に紹介する。
「聞いて驚き給え、この御方はかの有名な江戸川乱歩先生だよ」
聞いて丸山は「まあ、それはそれは」と驚いた表情を見せる。
言わずもがな、江戸川乱歩は本邦きっての推理小説家であり、大正期から活躍をしている大作家である。
戦争中の一時は探偵小説は時局に合わぬと検閲を受けていたものの、戦後に再開した少年探偵団シリーズは人気を博しており、丸山も登場人物の探偵明智小五郎が一等好きなキャラクターであった。
しばし三人で歓談をしていたが、途中、勘三郎は急な呼び出しがあったとのことで中座することになった。
「申し訳ない、急な用事が出来てしまって。乱歩先生はどうぞそのままお寛ぎください」
「そうかい、連れてきてもらったのに悪いね」
そういうと乱歩は新しい煙草に火を点けてゆっくりと吸い始める。丸山はせっかくだからと乱歩の方に向き直ると彼に問いかけた。
「ねえ先生。明智小五郎って、一体どんな人?」
すると煙草を吹かしていた乱歩は、にやりと笑って答える。
「腕を切ったら、青い血が出てくるような人だよ」
「うわぁ」
口元を押さえて艶美に笑う丸山に、乱歩は問いかける。
「分かるのかい?」
「素敵じゃない。だって、ハンサムで知的で、腕を切ったら青い血が出てくるような人なんて」
大作家の乱歩に向けて全く物怖じせずに語る美少年を乱歩は気に入ったのか、煙草をもみ消すと丸山の手を取ってその腕につう、と指を這わせる。
「それじゃあ君の腕を切ったら、どんな血が流れるんだい?」
「はい、七色の血が出ます」
丸山の答えに乱歩はさらに笑みを深くした。眼鏡の奥の瞳は一層鋭い光を放っている。
「面白い、じゃあ本当に切ってみよう。おい、包丁を持ってこい」
乱歩が声をかけたのは偶々近くにいた定子だった。定子は突然の言葉にオロオロしていたが、大作家の言葉に逆らうわけにもいかない。戸惑いながらも厨房へと向かった。丸山は乱歩の目の中に尋常ではないものを感じ取っていたが、彼を怒らせるわけにもいかない。努めて冷静を装って、やんわりと乱歩の手を押さえながら彼に向けて告げる。
「お止めなさいまし。切ったら七色の虹が出て、目が潰れてしまいますよ」
丸山の言葉に乱歩は感心したような表情を見せた。
「……君、一体いくつだい」
「はい、十六です」
「十六歳でこのセリフかい……」
乱歩は驚いたように天井を見上げると、掴んでいた丸山の腕を離し、胸元から取り出した煙草に火を点けるとゆっくりと吹かしてから告げる。彼の目の色はさきほどまでと異なって好々爺然とした落ち着きを見せていた。
「いや申し訳ない。つい楽しくなってしまったものでね」
なんとかその場は収まったように見えたが、次の瞬間、二人の席から少し離れたところで悲鳴が上がった。
見ると、さきほど乱歩に包丁を持ってこいと言われた定子がそのタイミングで厨房から戻ってきていた。しかし端から見ても彼女の様子は尋常ではなく、ぶるぶると震えながら切っ先を自分の進行方向に向けており、今にも誰かを刺しかねない切羽詰まった表情をしている。先ほどの悲鳴はただ事でない彼女の様子に他の女給が上げたものだった。
<続く>