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天の虫、愛ずる殿方


薄暗がりの中、無数の生き物の気配がする。
温度と湿度が人工的に調整された部屋の中には、桑の葉の匂いが充満している。ざわざわ、ざわざわと絶え間なく続くざわめきは、大量の蚕が桑の葉を食む音だった。数万匹が一斉に立てるその音は、暗がりの中でも圧倒的な存在感でこちらに届いてくる。
ここは大学の蚕種飼育室。蚕を実験的に育てている場所だ。

「豊浦さん、どうですか?初めて見た感想は」

隣に立っている上垣くんが問いかけてくる。私は素直な感想を述べる。

「なんか圧倒されるね」
「嫌じゃないですか?言い方はあれですけど結局は蛾の幼虫なんで」
「直接見えないのもあると思うけど、ここまで多いとちょっと現実的な感じがしなくて戸惑ってる」
「いまどきはこういう光景を見ることは少ないですからね。昔はたぶんあちこちの養蚕農家さんで当たり前に見られた光景なんですけどね」

そう言った彼の声音は少し寂しそうであり、愛おしげに飼育棚を見つめる彼の横顔は、こちらがどきっとするほど慈愛に満ちていた。


同じ大学で一つ年下の上垣くんと出会ったのは先日の大学の研究室交流会でだった。せっかくの総合大学なのだから、普段かかわりのない研究室同士のメンバーでもっと交流しようという企画に彼の所属する研究室と私が所属する研究室も参加したのだった。

お互いの研究についての発表ののち、大学の食堂での懇親会という名の飲み会が行われた。

隅っこの方で一人ちびちびと缶チューハイを飲んでいる私に声をかけてきたのが彼だった。
すっ、と私の前にお寿司がのった紙皿を差し出してくる。

「文学部の豊浦さん、、、でしたっけ。理学部土岐研の上垣と言います。お寿司でもいかがですか」
「あ、ありがとうございます、上垣さん」

年下なんで上垣でいいです、と彼は言うと自分も紙皿に山盛りのスパゲティを食べ始めた。

「僕の発表、どうでした?分かりにくかったりしませんでした?」
「とりあえず最後のスライドの大量の蚕の写真がちょっと…」
「あー、やっぱりそうですよね」

彼はぽりぽりと困ったように頭を掻く。

「僕も教授に言ったんですよ。きっと女性も多いだろうから、蚕の写真はやめた方がいいって。そしたら教授、蚕はかわいいだろ!って怒り始めちゃいまして」
「あー、教授とかってそういうこだわりある人多いですよね」
「こっちも抵抗して、写真を載せるのはどうにか最後だけにしてもらいました。教授のいいなりだと全スライドに蚕の写真載ってましたからね」
「それだとちょっとまともに見られなかったかも…」
「でしょ?かわいいとは思うんですけど、女性は苦手だと思うんですよ」
「あ、かわいいとは思ってるんだ」

そりゃまあ、かわいいと思ってなければここまで必死に研究しませんよ、と彼はまじめな顔で語る。至極まじめに蚕のかわいさを語る様子に私は失礼ながら吹き出しそうになる。

「僕は自分の研究で養蚕業をもっと盛り上げられればと思っているんです」

ぐっとこぶしを握り締めてそう告げる彼の顔はとてつもなく真剣で、年下とは思えないほど大人びた表情だ。

「なんだっけ、上垣…くんの研究って遺伝子操作で蚕糸の色を変える研究なんだよね?」
「そうです、文学部の人にはあんまり興味ないかもしれないですけど」
「そんなことないよ。上垣くんには釈迦に説法かもしれないけど、日本史の中でも蚕って重要な生き物だし」
「そうなんですか?日本史は高校の頃からさっぱりで。近現代ならなんとかなるんですけど」
「古事記にだって記述があるくらい古い歴史があるんだよ」

ははぁ、と腕を組んで感心したように彼はこちらを見てくる。どうやら彼が関心があるのはあくまで実物の蚕のようだ。
実物と言えば、偉そうに古事記などと語ってみたものの、私は実際に蚕を見たことはない。

「まあ私は蚕って直に見たことないんだけどね」

と言うと、上垣くんはきらきらと目を輝かせてこちらに提案してきた。

「あ、じゃあ今度うちの研究室で見てみます?僕が案内しますよ、ぜひ!」


後日、熱心な誘いに思わず了承した私を上垣くんは、わざわざ文学部棟まで迎えに来てくれた。

大学の中でも文学部棟と理学部棟は敷地の両端に離れており、お互いの交流がないのもわかるほどの距離を隔てている。
柔らかな昼下がりの日差しが降り注ぐ学内のメインストリートを、二人連れだって歩いてゆく。交流会の時の様子とはずいぶん違って上垣君は見るからに緊張した様子で私を先導してくれた。

「研究室に誰かを案内するのは僕初めてなんですけど、いざとなると思いのほか緊張しますね。すいません、無理に誘っちゃって」
「いえいえ、もとは私の一言からなんだし、そんな気にしないで」

そうは言ってみたものの男性と二人だけで学内を歩くのは私も初めてで、誰かに見られやしないかと少し気恥しくもあった。


最近建て直された理学部棟は、どちらかというと埃の匂いのする文学部棟とはずいぶんと印象が異なっていた。なんというか、理系の香りがばりばりするというか。何が違うのだろうか。それなりに長く大学にはいるけれど、初めて入る建物はやっぱり少し緊張する。
大きな実験装置も出し入れができるという大型のエレベーターを上がって、4階の突き当りが彼の所属する土岐研究室のあるエリアだった。

生物学実験室、と書かれたドアを開けると中には難しそうな装置や器具が所狭しと並んでいて、本棚だらけの文学部の部屋とは全然違っていた。

「まずは一頭だけ見てみますか」

そう言って彼は壁際に置かれているタッパーに入った飼育中の蚕を見せてくれた。おっかなびっくり覗きこんでみると、桑の葉が敷き詰められた中、一匹の蚕がもしゃもしゃと一心不乱に口を動かしている。

見るまではかなり身構えていたけど、単独で見てみると、ちょっとは愛嬌がある…のかな?

「良かった」彼はほっとしたように言う。
「え?」
「見た瞬間に嫌がられたらどうしようかと心配だったんですよ、これでも」

照れくさそうに笑う彼の姿は真剣に蚕のことを語る時と違って、なんだか小学生のような幼さを感じる。理系の男の人はみなこうなのだろうか。

「ここまで人をひっぱって来ておいて、いまさらなに言ってるの」

私が呆れたように言うと、それはそうなんですけどね、と彼は顔を赤らめる。今頃になって恥ずかしくなってきました、と言いながら恥ずかしさを隠すように後ろを向いて大量に並んだタッパーをごそごそと漁りだした。

「ええと、せっかくだから成体も見てみます?」

私の前に別のタッパーが差し出される。今度は蓋が閉まっていた。

「飛んだりしませんから、開けちゃって大丈夫ですよ」

私は促されるままにおそるおそる蓋を開ける。
蛾と聞いていたから不気味な印象を持っていたけれども、それは想像していたよりもずっと儚い造形をしていた。

彼の説明によると、ふわふわとした純白の翅は飛ぶ機能を持っておらず、栄養分を摂取するための口顎すら持っていない。
ただ生殖のためだけに一度どろどろに体を溶かし、体を完全に作り変える。
生殖に成功してもしなくても、残り一週間くらいしか持たない命。
天の虫、なんて名前がついているのに、彼らは天には絶対に届かないのだ。

「そもそも繭を取る都合上、成体になることがない蚕が大半なんですけどね。でも僕はこの成体も美しいと思うんです」
「うん、私も奇麗だと思う。なんだろう、なんていうか儚さを形にしたような感じがする」

私がそう言うと、わかってもらえますか、と言って彼は心底嬉しそうに微笑んだ。その笑みは私なのか、蚕なのか、どっちに向けられたものなんだろうか。

そのあとも彼は熱心に研究室を案内してくれた。大量に蚕を飼育しているという蚕種飼育室は想像以上に規模の大きい部屋で、私は感心することしきりだった。あちこち連れまわされるうちにいつの間にか時間がたっており、流れのまま二人で少し早めの夕飯を食べることになった。

大学のすぐ近くのファミレスに場所を移してからも、蚕談義は留まるところを知らず、料理が運ばれて来ても話は途切れることなく続く。

「僕の研究は蚕の遺伝子操作なんですけど、他にも医薬品の生産に利用したり、実験モデルとして使うこともあるんですよ」
「糸を使うだけじゃないんだね。私もちょっと気になって調べてみたけど、日本全国で色んな呼び方があるし、蚕の神様を祀った神社もあるみたい」
「昔から人とのつながりの深い生き物なんですね。確かに完全に家畜化された唯一の昆虫ですからね。むしろもう野生には戻れないんです」
「あー、そういうところが儚さを感じさせるのかなぁ。人が育てなければ生きられない生物なのか。罪深いね」
「文学的ですね。文学部の人にいうことじゃないかもしれませんけど」

それはさすがに失礼だよと笑いながら言うと彼は、すいません、こんなに他の分野の人と研究がらみの話ができるなんて嬉しくて思わず、と小さく首をすくめた。
確かにそれは思う。私も同じテーマでこんなにも違う観点から理系の人と話ができるとは思わなかった。

「せっかくだし、次は私が蚕にまつわる伝承とかの話を調べて教えてあげよっか」
「それはいいですね。ぜひお願いしたいです」

嬉しそうにこくこくと彼は頷く。
研究室交流会も捨てたもんじゃないね、と私が言うと彼は、僕も最初は気乗りしなかったんですけど、豊浦さんと会えたのは良かったです、と言って朗らかに笑う。率直な彼の言葉に私はどぎまぎして、慌てて両手でカップを持って残ったお茶を飲み干した。


その日の夜、夢を見た。

上垣くんが優しく蚕をなでると、導かれるように蚕が糸を吐き出す。

色とりどりの糸を吐き出しながら繭を作っていく蚕。染めることなく色づいた糸は、とても優しい色彩をしていた。

その糸はふわりと周囲を舞い、私のところへも届いてくる。

私がその糸をちょん、と指先で摘まむと、上垣くんはこちらに気づいて笑いかけてきた。

蚕の糸が紡ぐ絆。

赤い色だったらちょっと嬉しいかも、と私は思うのだった。


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