二月の棘 第十二話 先手を打つ
やがて、僕らの前に大きな木箱が持ち出された。
崎谷さんはその蓋を開けると綴られた冊子や、現代の手帳を取り出す。
その中には、あの千鳥格子の手帳に良く似た手帳もあった。
文字が詰め込まれていることを裏付けるように、その手帳もかなり膨らんでいる。
佐野先輩は人の業と言ったけれど、僕にはそれだけではないような気がしていた。記憶の中にあるあの美しい記述。まるで人の中に巣くう棘を讃えるような記述が僕の脳裏に浮かぶ。
自分に課せられた辛い出来事を棘というのなら。みんな棘を抱えている。皆がその痛みを背負っている。時には正面から向き合い、時にはうんざりして目を背けながらも、なんとか生きている。棘があっても人は生きていけるし、棘の存在が人を動かす原動力になることもある。
人のなかには恨みの感情も憎しみも当たり前のようにある。それをなだめすかして、みんななんとか生きている。
昔のことは僕には分からない。ましてやそれ以前のもっと過酷な時代のことなんて、現代でのうのうと生きている僕には到底想像できない。
親父がアル中だったなんてのは、昔の人にとっては実にくだらない棘なのだろう。山と積まれた和紙の束を見つめながら、僕は恥ずかしくなった。
「内容は、現代のものとさして変わりません」
僕の思考を読んだかのように崎谷さんが切り出した。ぎくりとする。
「戦時中は敵に対しての呪詛が多いのですが、人々の悩みは現代とさして変わらないんです。親子の問題、夫や妻に対して、恋人、友人や知人、地域の者に対しての苦言や憎しみ。政治に対するものは殆どありません。身近な問題に関することばかりです。まあ、人なんてそういうものです。自分に近いところにある悩みが最も大きい。一番多いのは恋愛に関するものですしね」
「恋愛……ですか」
佐野先輩がぼそりと呟いた。瑠衣のことを思い浮かべているのだろう。「そうですね。恋愛を通して人は自分と向き合うことが多い。結局は自分の中身とどう折り合いをつけていくかってことでしょうし。悩みに時代は関係ないのかもしれませんね」
「あの……」
突然姉が口を開いた。崎谷さんが姉のほうに視線を移すと、姉は少し迷ったような表情をしてから言葉を続けた。
「どうしてこの島は女人禁制なのですか?」
姉にとって、この島のしきたりはどうにも納得がいかなかったらしい。
「こういう場所は全国にたくさんあります。沖縄の方には男性が入ってはいけない島もあります。単純に男尊女卑と括れない歴史があるんですよ。とはいえ、この島の女神は女性に嫉妬してここに入るのを拒んでいるわけではありません。昔は女性も当たり前のように詣でていたんですよ」
またしても崎谷さんの言葉はその場にいた者たちを驚かせた。
「じゃあどうして?」
当然の疑問が姉の口から漏れた。
「事件があったんです」
「事件?」
「この島に住む若い男性を恋慕っていた女性がいたんですよ。しかしこの島に住む者はみんな神職です。色恋沙汰は遠ざける。それは今でもそうです」
崎谷さんは言葉を選びながら続けた。
姉の表情は憮然としたままだ。相も変わらず分かりやすい。
「神職の男性を追って島に入った女性は、相手の男性に見せつけるようにして命を絶ちました。自分が捨てられた恨みを示すためです」
それはまさに瑠衣だった。時代が変わっても同じことが続いているのだ。
この神域の島であっても、人の業からは逃れられないらしい。
「ここに安置されている呪詛は、島の女神に清められています。島では何も恐ろしいことは起こりません。あの事件の後からは」
「ということは?」
「事件の後から、このような手帳が出歩き出したということです。島に呪詛が持ち込まれる前に先手を打つとは、ここの女神もなかなか行動力があると思いますよ」
そう言うと崎谷さんは、はっはっはっと大きな声で笑った。
先手をうつ? 崎谷さんの出した結論は、僕の常識を飛び越えていた。
なんか騙されたような気分だ。そんな非現実的なことが、この現代で起こっているなんて。
勝手に動き回る手帳。息を吸って吐くように表紙が持ち上がる手帳。長いこと会っていなかった人を呼び寄せてしまう手帳。
僕はこの二年間、ずっと非現実的なことを見て来たというのに、それでも信じられない気持ちだった。
「あの……」
僕も質問したくなった。崎谷さんが優しく頷く。
「この手帳。二年前に姉の手に渡って、それから僕が暫く預かったんです。僕はずっと会っていなかった元恋人に出会ったり、その子が亡くなってしまったり、先輩のところに手帳が勝手に行ったりして。この二年間ずっと手帳に付きまとわれていたんです。それって何か意味があるのでしょうか?」
「それはそれは。手帳に惚れられましたね」
崎谷さんはとんでもないことを言い放つと、またしても笑った。
「この手帳は、中身を読んでもらいたがってるんですよ。全部読みましたか?」
「いいえ」
僕は首を横に振った。この分厚い手帳を全部読むだなんて、全く考えたことがなかった。姉が胸くそ悪いと言った手帳の中身なんて、拾い読みするのがせいぜいだ。僕が読んだのは、棘を讃えた一文くらいだった。
「好きな人には、自分のことを知ってもらいたいと思いませんか?」
からかうように崎谷さんは続けたが、その表情は真顔だった。
「私はここにやってきた手帳の中身を全て読んでから供養しています。時代が変わっても人の中にある業はそうそう変わらないといつも感じています。こういうものは普遍的で、時代に左右されないのでしょうね」
やがて崎谷さんは、箱から出していた冊子や手帳を木箱の中に納めはじめた。その手が千鳥格子の手帳に伸びた時、僕は思わず声を出す。
「あの。ちょっと読み返してもいいですか?」
僕の要望を聞いた崎谷さんは、微笑んで手帳を手渡してくれた。
「一時間ほどしたら供養をしますね。それまでにお返し下さい。皆さまは、供養には立ち合いますか?」
一人として異論はない。
静かに頷いた崎谷さんが、着替えてきますねと告げて拝殿を出て行った。