『毒になる親 一生苦しむ子供』後編
スーザン・フォワード著の『毒になる親 一生苦しむ子供』。
目次の項目への私の意見・感想の続き。
◇アルコール中毒の親
アルコール依存症者は飲むために嘘をつき続ける。そして言うことがコロコロ変わる。家族はアルコールに支配された怪物が暴れないように、共依存となってコントロールしようとしたり、他人に対して嘘をつき続けることになる。
依存症者は、治療に結び付いても何度も入退院を繰り返す。そして完治はない。断酒(一生一滴も飲まないこと)すれば日常生活に戻れるが、スリップ(再飲酒)するのは日常茶飯事である。それでもまた治療に戻れば良いのだが、放棄して飲み続ければ死は目前だ。
家族の苦悩は生半可なものではないだろう。ただ私は当事者ではないので、本当の意味でその気持ちは分からない。治療者としての経験をもとにアドバイスをするに留まるしかなかった。
私が適量以上に飲酒する人物に厳しい目を向けてしまうのは、これらの経験の後遺症だ。法律には違反していない……のだけどね。
◇残酷な言葉で傷つける親
この章のなかで印象的な当事者のセリフがある。
「ひどい言葉で傷つけられるよりは、ぶたれるほうがまだましですよ。ぶたれた痕が残っていれば、少なくともみなが同情してくれる。言葉で傷つけられた場合には外から傷が見えないでしょう。体の傷は心の傷よりずっと早く治りますよ」
まさしく! といった感じだ。侮辱的なののしり、辱め、馬鹿にした言葉は将来に渡って子供の人生に悪影響を与える。呪いの言葉だ。
身体への暴力だけが虐待ではない。身体的暴力には言葉の暴力もセットになっているものだが、表から全く見えない心の傷のことを、援助者は軽く見すぎていると感じている。
また、著作のなかにあったが、言葉の暴力を軽いジョークだという親がいる。そうやって子供をからかい、貶める。子が抗議しようものなら、お前はジョークも分からないのかと更に貶める。とても狡いやり方である。
言葉を上手に操れる大人とは違うのだ。そうやって上げ足を取られ続けた子供は、無気力になっていくだろう。親は反論できない子供を使って自己満足をしているだけ。弱い者を傷つけているという認識すらない。
◇暴力を振るう親
著者も最初に書いているのだが、まず体罰は犯罪である。訳者の注釈にあるのだが、現在のアメリカでは子供が激しく泣き叫んでいれば警察はその家に踏み込んで親を逮捕できるそうだ。また教師が児童や生徒を叩いたら、ケガの有無にかかわらず解雇という。
現代ではなく昭和時代の子供である私は、母親に布団叩きの柄で全身みみず腫れになるまでブッ叩かれ続けたことがあった。のちのちようやく分かった原因は夫への不満であり、私は八つ当たりを食らったということらしい。
もちろん父親は虐待される私を救うことはしていない。つまりは消極的な共犯者である。母親の私に対する癇癪は、概ね夫に対する不満と怒りが原因だった。
相手は子供である。大人は暴力を理性で止めることが出来るものだが、一瞬でスイッチが入ったかと思うと手を振り上げる存在もいる。そういう親は子供時代に自分もまた親から暴力を受けていることが多い。ただ子供にしてみれば、そんなことは知ったこっちゃないのである。
教師からの暴力も普通にあった。分厚い本で生徒の頭をブッ叩く教師がいたのだが、叩く前に「歯を噛め!」と言う。間違って舌を噛まれてしまったら自分が責任を問われると思ってのことだろう。軽蔑に値する教師だった。
あの教師が現代にいたら、解雇とはいかなくとも大問題だ。そんな姿を是非とも拝みたかった。
日本の学校でも暴力やいじめは犯罪であるという意識がしっかり根付いてほしい。それと教師は自衛隊員の子供をいじめるのをやめろ!
◇性的な行為をする親
この項目に関しては私は全く想像が及ばない。他の暴力とは違って性的暴力は外部には言えないものだ。しかし性暴力は著者の言うように絶対に行ってはいけない悪である。そして実際の性行為に限らず、入浴や着替えを覗く行為も性的虐待に入る。
興味深いことが書かれてあった。世の中の誤解のなかに「ほとんどの近親相姦の話は子供の性的な願望が作り出した空想や白昼夢で、作り話だ」というものだ。
この誤解は二十世紀のはじめにフロイトによって作り出されたもので、それが心理学者のあいだに広められたのがはじまりだそうだ。フロイトはウィーンで精神分析の研究をしていた時、信頼のおける中流家庭の娘たちからあまりに多くの近親相姦のリポートが寄せられたため、すべてが本当の話ととても考えられないと結論してしまい、それらの多くは空想の産物だと断定してしまったそうだ。のちの精神分析への弊害となったのは言うまでもない。
この本の第二部は『毒になる親』から人生を取り戻す道について記述されている。ざっとこんな章タイトルが並ぶ。
毒になる親を許す必要はない。
「考え」と「感情」と「行動」のつながり。これらのチェックを行う。
自分は何者かを知る。反応と対応の違いを知る。
怒りの管理と悲しみの処理。
独立への道。(毒親との)対決はなぜ必要か。その方法。
話し合いが不可能な場合(親が年老いている。すでに死亡している)。
自分が毒親にならないために。
私は恋愛や結婚に夢や希望が持てなかったので、関心がなかった。それによって自分の子供を虐待するという負の連鎖を引き起こさずに済んで良かったとも思っている。結婚以前に恋愛に興味がなかったので、今時でいう分類をするならばアセクシャルなのだろうが、それ以前に『人を信じても裏切られる』という呪いがかかっていると感じざるをえない。
毒親の元で育ち、思春期の十年間をいじめられて過ごせば立派な人間不信が育つのだ。親に植え付けられた毒の『種』は私の中でまだ育ち続けている。何度もうつ病の再発を繰り返した元凶にもなっている。
ただ様々な生き辛さの原因が『毒親』にあったことがハッキリしたことで、ある程度の納得がいった部分はある。解決はしていないが納得はいった。それだけでも大きいと感じる。
事象に対して名前をつけることは悪意のあるレッテルにもなるのだが、定義があるし事例も多くあるのでつけられたということでもある。同じ経験をした人物が世界には多くいて、私もまたそのなかの一人だった。それが分かっただけでも『すわりがよくなった』気持ちがある。なにやら分からない心のもやもやに名前がつくのは悪いことではない。
そういう意味で、この著作は画期的なものだったと感じている。