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24.1.25 心療内科

 久しぶりに外へ出た。1月にしては高めの気温で、8℃だそう。しかし玄関のドアを開けた瞬間「さむっ」と言ってしまった。言葉は心より先にやってくる場合もあって、その言葉がネガティブな場合、心までそれに引っ張られてしまう。よって、モチベポイントマイナス1。
 エントランスの扉を開いて、ここからが本物の外の世界。太陽が眩しい。陽光が顔を照らす。先ほどのマイナスを取り返すように「あったけぇ~」と呟いた。

 道路に出てみたら案外風が強くて、これが8℃の風か?と思わせるほどにはしっかり寒い。肌を針でつつかれるような感覚を覚えて、ネックウォーマーを目の下ギリギリになるように調節する。今が夜だったら職質モノである。既に冷え切っている手で音楽アプリを起動し、サカナクションのミュージックを再生した。音の調和とまっすぐな声が心地よい。
 人間が美しく感じるらしい黄金比、白銀比。音楽にもそういうのあるのかな、なんて考えながら駅へと歩みを進めた。


 本日の外出の目的は、すでに決まっていた。心療内科の受診と、最近芥川賞を受賞したらしい本を買いに行くためだ。


 心療内科では、最近しんどいと思っていることはありませんか、何か話したいことはありませんか、と質問されて、それに答えていくような形式だった。前回来たのが去年の11月。
 そこでは失恋して以来、動悸と不安が強くて、睡眠や仕事すらままならない。白黒思考をやめたい。といった内容の話をした。
 それを聞いた医者は冷たい声色で「またですか。」と放った。そう言った直後に失言に気が付いたのか、頭を下げた。ひとしきり謝ったあと、ぶしつけでした、本当に申し訳ないと付け加えた。蛇足だ。そんなことを言われても傷ついたものは傷ついたし、「そんなに謝られても、俺が傷ついた心は傷ついたままですよ」とでも言おうと思ったけど、そうしたらさらに謝罪されるのは想像に容易いし、そこまで行くと逆にこちらが申し訳なくなるので感情を押し殺し、「はは、大丈夫ですよ」とだけ返した。白黒思考に関しては無視されたが、先の一件もあってか聞き直す気にはなれなかった。
 結局、クロチアゼパムとリスペリドンという薬を処方された。
 最後の頼みの綱として心療内科が存在していて、そこにいる医者は患者に対して、あらゆる誤解をさせてはいけないし、傷つくようなことも言ってはいけない。伝えたいことをマイルドに変換する頭の良さも兼ねてないといけないのか。大変だな。

 心療内科が駒込にあって、その近くの本屋だと池袋のジュンク堂ということになっているらしい。駒込には山手線が通っているのでそのまま乗車、5駅程度で池袋に着いた。

 久しぶりに来る池袋、しかしもちろん前回の記憶とそう変わっているわけはなく、変わっている事といえば自己の荒みに荒みまくっているメンタルか。そんな俺と裏腹に、街行くカップル、すでに千鳥足のおじいさん、ネクタイがズレているサラリーマン、爆速でチャリを漕ぐ中学生。みんな幸せに見えた。少なくともこの世の終わりのような顔をしている人間は一人も見当たらず、笑顔ばかりが見受けられたように思える。(実際のところは分からない、俺は幸せでは無いのだから、俺以外はせめて幸せであってほしいという願いによって、そう見えただけかもしれない。)
 嫉妬の感情は無く、ただ平和だなと思うぽかぽかした気持ちだけが湧いてきた。


 ジュンク堂は池袋周辺だと一番大きな本屋で、総合書店というジャンルに分類されるらしい。地下1階から9階まで、ビル1棟がそのまま書店になっているという仕組みである。
 入店して目についたのは、山積みになった芥川賞受賞の本たち。この書店の中での主役は私達だ、といわんばかりに、綺麗に整頓されてそこに佇んでいた。(もし仮に隅っこの方でひっそりしていたら、俺はそれを見つけるまでの苦労を惜しまないし、買った後は宝物のように扱うだろう。)俺は天邪鬼なので、そこまでアピールされると逆に買う気が失せてしまう。せっかく大きな書店なのだ、色々見て回ろうと思い立ち、その主役に背を向けて、文庫コーナーである3階へと足を進めた。
なんかもう書くのが面倒になったので省略するが、結局芥川賞の本は買わなかった。あの展示方法に反感を覚えたわけではないが、色々見た後に1階に戻ったら読む気が失せていた。
 代わりに最果タヒの「恋できみが死なない理由」と江國香織の「すみれの花の砂糖づけ」の2冊を買った。
 最果タヒの本は見つけた瞬間に手に取っていた。以前から彼女が書く言葉が好きで、それは俺の心をズタズタに切り裂いたと思いきや、修復もする。彼女が書く言葉は、誰に宛てたものでもない感じがする。読者に向けて書いていない。最果タヒという人間が書いたことさえ感じさせない、すべてが透明であろうという想いが伝わってくる。それは読者も同じだ。ふわふわと宙に浮いていた言葉を丁寧に1語ずつつかまえて、本という額縁に閉じ込めた、みたいな感覚。だから正直に言ってしまえば、彼女の詩を読んでも分からないことの方が多い。読んだ詩は、たったいっぺんの波だけで崩れてしまう砂の城みたいに、読み終わったと同時に俺の心からきれいに消え去っている。それが普段、彼女の詩を読むときに起こることだ。それでもたまに、たった1篇の詩が、俺の心を大きく揺さぶることがある。なぜこの詩なのか。それは俺の近くにその詩と同じ言葉が偶然ふわふわ漂っていたんだな~と、そう思うことにしている。

 江國香織の著は初めて読む。なんとなく、良さそうと思ったのだ。タイトル買いというやつかもしれない。後から気付いたがこれも詩集だった。

 俺は心が弱っているときは詩を読むのが好きで、それはホリエモンみたいな人が言う「○○をすれば成功する!!」のような、力強いけれど、ある種他人任せな言葉に比べて、霧のように輪郭がぼやけ、手に取れたと思ったら、水みたいに静かに零れ落ちてしまうような、曖昧さがあるからだと思う。その霧の輪郭を撫でていくと、だんだんと形が分かってくる。自分の解釈が生まれる。誰に強制されたわけでもなく、自分がそうしたいと思ったから生まれる解釈。そうすると、自分を褒めてやりたくなる。だから好きだ。


 本を買う予定がある時、俺はいつも使っているバックパックを家に置いていく。代わりに、文庫本がようやく1冊入るぐらいの小さなバッグを持っていく。俺の心を弄び、揺さぶり、切り裂き、そして修復するための文章が1行でも入っている可能性を考えたら、俺はこの本たちをバックパックに雑に放り込むような一般的な荷物として扱うことは出来ない。それこそ本当に宝石店で宝石を買った後、ケースを大事に撫でるような、愛情を注ぐような心持ちになる。そこも含めて、俺は本が好きだ。できれば電子ではなく、紙が良い。
 なぜ紙が好きなのかと言うと、それは装丁を楽しむという意味もあるが、何より記憶の結びつきが紙のほうが強いからだ。本自体のやわらかさ、本に触れる指の感覚、紙が捲れる音、ほのかに香る紅茶の匂い、まろやかな音楽。本はすべての事を覚えている。いつかの日、その本のページを捲る時には、当時の五感を否応なしに再体験することになるだろう。
 本を読むということは、その時の環境を記憶することでもあるのだ。


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