没案
1
寝る前に水が飲みたくなって下の階に下りた。
1階には妹が薬を飲むために下りていた。水と薬を無表情に見下ろして。
「まだ飲んでないの?」
俺がそう聞くと妹は首を横に小さく振った。
彼女は所謂引きこもりだった。行かなくなった理由は誰にもわからない。虐めもない今では珍しいくらい仲のいいクラスだったという。俺も後輩にそれとなりに聞いてみたが、そんな話は聞いたことがないと答えた。
担任も理由がわからないと言い、母親も父親も困りに困った。
どうして行かないのか、理由があるから行きたくないんでしょうと聞いても、理由なんてない! 最初から今まで何もなかった! 何も起こらなかった、と泣きながら答えた。
以来、家族からは腫物のように扱われた。
俺は兄だったから俺が暗い顔をしていたら家が暗くなると思って努めて明るくいようと思った。
「この薬をね、全部飲んだらどうなるんだろうって考えてたの。 眠れないから無理やり寝かす薬を全部飲んだら眠ったように死ねるのかなって」
妹は俺にだけは会話を許してくれた。母親や父親はどう接していいかわからなくすぐに部屋にいなくなる姿を見て悲しそうにため息を吐く。母親も傷ついていたが妹も同じように傷ついていた。
なぜ話さないのと聞いたら、怖いからと答えられた。
「精神の薬なんて頭を書き換えることだと思うの。 心は胸にあるなんていうけど実際は頭。 脳にしか思考も感受性もないの。 だから時々終わらせたくなった時にこの薬を全部飲んだら楽になれるのかなって考えるの。
薬を飲んでお風呂に入って暖かさを感じながら溺れて翌朝には冷たくなっているのかもしれない」
俺はその話をきいてひどく悲しくなった。 自分が彼女にかけてあげられる言葉が無力なんじゃないかと考えた。
「俺はお前がいなくなったらさみしいよ。 だからそんなことを言わないでくれ」
「人が怖くなったのは他人に責任なんてないの。 全部自分にしか問題なんてなかった。 もしね、人が8割いなくなったら世界はもっと元通りになるんじゃないかって考えるの。 切られる木もなくなるし追い出された動物たちは人間の都合で殺されないし猫も人の都合で殺処分されなくなる。 でもね、きっと残る人たちはこの世界で必要な人であって私みたいな人間は真っ先にいなくなってしまうんだ」
俺はしばらく答えることが出来なかった。
自分が酷く矮小な存在なんだと考えているしそれを悟られたくもなかった。
「俺たちはもっと単純に世界を見れたらいいのにな。 日向ぼっこをする猫みたいに何も考えずただ受け入れるだけみたいに」
「日向ぼっこする猫」
妹は微笑を浮かべ気に入った言葉を大事にするように反芻した。
2
夢を見ていた。
夢だと気づいたのは途中からで俺はよく行ったショッピングモールにいた。
モールは突然できて町の商店街を破壊した。それはそうだ。わざわざ歩き回らなくても安価でたくさんのものが買えたし服屋、おもちゃ屋、CDショップまでなんでもあったのだ。
土日は客でごった返して友達とも約束もなく会えた。
テナントはどんどん減っていき集客は衰えていく。そうしてどんどんいなくなったモールは経営不振に陥った。最後には潰れて俺の周りには広大な駐車場を持ったパチンコ屋と場外競馬場ぐらいしかなくなった。
みんなどこに行ったのか。
みんなどこで生活しているのか。
すべてが無くなった今じゃ分りもしない。
そのモールで屋上で出会った女の子と歩いていた。
彼女はミソラという。ドレミファソラシドからドレファソを除いてって笑いながら教えてくれた。
ミソラは音楽が好きだと教えてくれた。
そしてディスカウントショップでピアノを見つけ弾いてみたいといった。(実際にはピアノなんて置いては無かった。)
一音一音を大切そうに奏で、エリックサティのジムノペティを弾いて見せた。
ミソラはピアノを大変気に入ったみたいでこれを買おうと言う。
店員はとても愛想のいい笑顔をした中年の女性で1万円と教えてくれた。
「羽はいらないのかい?」
店員が聞いてきたが俺にはわからない。 ミソラに聞いても首をひねるだけだった。
まるで呆れたかのようにため息をついて「それじゃ5枚いれておくね」と袋に用意してくれた。
所詮、夢のことだ。
店を出るとき店員は俺には何も言ってはくれなかった。外で待っているミソラに袋を渡すと彼女は「ありがとう」と心から嬉しそうに笑った。
そこで目が覚めた。
夢の内容を鮮明に覚えていたのでなぜ俺はミソラとモールにいたのか、ピアノと羽はなんの関係があるのか考えたが分からなかった。調べてみたけれどそんなものは存在しなかった。
俺はまた夢の続きが見たくて寝直してみたが二度と夢は続いてくれなかった。多分これからも出てくれはしないんだろう。
夢というのはそうらしい。ひどく荒唐無稽で悪趣味だ。
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