「なぜアメリカ映画にパパはいないのだろう?」
映画『グラディエーター』を観てそう思いました。いつもアメリカ映画の主人公にはパパがいない。そしてパパを探し、愛し、憎んでいるのでは、と。
基本的に手に汗握る大活劇なんですが、話の軸は、皇帝マルクスに愛されぬ息子コモドゥスの悲しみと憎しみなんです。息子の非力さ、邪悪さに気付いているマルクスはその権力を委譲しようとせず、一介の農民だったマキシマムに譲り渡そうとします。
それを知らされたコモドゥスは、父を殺害することで永遠に父を失います。「あなたのためなら世界を滅ぼしさえしたのに」って、だからそういうことじゃないんだよ!と説教したくなるほど愚かなコモドゥス。
お互い愛していないわけではない。しかし、善悪の価値観や、権力や財産といった別の要素が2人の間で障害となり、結果的に引き裂いてしまうのです。
ててなし子の物語は、アメリカ映画の王道じゃないでしょうか?夭折した名優ジェームス・ディーンの代表作『エデンの東』もそんな“ててなし映画”の1つに数えたいですね。
主人公キャルがなんとか父親に振り向いてもらいたいために貯えた金。それを父親は受け取ろうとしません。「徴兵委員会を務める私が、戦争を利用して儲けた金を受け取るわけにはいかない」と。
「待てよ、そんなことより息子の愛をまず受け取れよ、理屈はその後にしろよ」とこっちが思ってもあきません。倫理や道徳に縛られ、妻さえもその正しさで縛り付けようとした父に、優先すべきは気持ちや思いではなく、何より価値観なんですね。それに準じた長男は自らの婚約というプレゼントを父に渡し、父に「そんな金よりお前の婚約の方が嬉しいプレゼントだ」と言わせしめるわけです。
そのときのキャルの苦しみは筆舌に尽くしがたい。なんでアメリカ映画の父親はこうも息子の気持ちをうまく受け取れないんだろう?そして息子は父親を求めるのだろう。
『スター・ウオーズ』ですらててなし映画です。『ジェダイの復讐』では、主人公ルーク・スカイウオーカーが、バーン!実は父だったダースベイダーと戦いすらします(そして最後に助けを求め、救おうとする)。
父親が登場しないててなし映画もあります。例えば、おすぎが絶賛して日本でも大ヒットした映画『フィールド・オブ・ドリームス』。平凡な人生を終えた父親を軽蔑しながら、しかしその父親の夢をかなえようと憑かれた男の物語です(ちなみに主人公が父親の幻影とキャッチボールしてこの映画は終わります)。
『ガープの世界』は、最後から最後まで父親の姿は登場しませんが、最初から最後まで父と一緒になろうとする主人公の姿が描かれます。
究極のててなし映画は、私が見た中では『マジックボーイ』ですね。
政治家の父に逆らうどら息子が、その父から奪った機密資料を奪われてしまう。奪ったのは、偉大なマジシャンだった父の影を追う少年。つまり、ファザコン少年VSファザコン青年なんですね。製作総指揮は、珍しく父と息子の和解を描いた『ゴッドファーザー』のフランシス・フォード・コッポラ。なるほど、なっとくのファザコンぶりです。
中学生のとき観たドキュメントで、俳優のピーター・フォンダが父親のヘンリー・フォンダにいかにして『愛してる』と打ち明けたかを追い掛けた番組がありました。御存じかも知れませんが、ヘンリーの浮気に悩んで母が自殺したことから、ピーター(および娘のジェーン)と父ヘンリーの間には長年の確執があったんです。その反抗の証が、ハリウッドから離れて作った映画『イージー☆ライダー』(何がいいんだか、今見るとさっぱりわかりませんが)だったわけです。
私はアメリカ人じゃないし、アメリカに住んだこともない。しかし、映画で見る限り、どうも米国人は常に父親に飢えているように見える。どうなんでしょう?