見出し画像

パパのいないアメリカ映画

 「なぜアメリカ映画にパパはいないのだろう?」

 映画『グラディエーター』を観てそう思いました。いつもアメリカ映画の主人公にはパパがいない。そしてパパを探し、愛し、憎んでいるのでは、と。

『グラディエーター』(2000年製作、リドリー・スコット監督)。ローマ時代を舞台に描かれた、主人公マキシマムのを復讐劇。マキシマムは皇帝マルクスの寵愛を受け、次期皇帝としての信任を得るが、邪悪なコモドゥスの陰謀で追放され、愛する妻と息子を殺され、奴隷になる。彼を待ち受けていたのは、実際に殺し殺される剣闘士(グラディエーター)として見せ物になることだった。しかし、コモドゥスへの復讐のチャンスが訪れる。『ベンハー』のチャリオットレースを彷佛とさせる剣闘の場面に興奮。コモドゥスの復讐に固唾を飲み、彼に味方する誇り高き奴隷達の精神に心うたれる。個人的には、なんといっても憎きコモドゥスのどうしようもなさに惹かれた。父に見放され、保身のために殺害し、姉への近親相姦的愛に身悶えする。なんつう奴だ。しかし、悪役を憎める映画は面白い

  基本的に手に汗握る大活劇なんですが、話の軸は、皇帝マルクスに愛されぬ息子コモドゥスの悲しみと憎しみなんです。息子の非力さ、邪悪さに気付いているマルクスはその権力を委譲しようとせず、一介の農民だったマキシマムに譲り渡そうとします。

 それを知らされたコモドゥスは、父を殺害することで永遠に父を失います。「あなたのためなら世界を滅ぼしさえしたのに」って、だからそういうことじゃないんだよ!と説教したくなるほど愚かなコモドゥス。

 お互い愛していないわけではない。しかし、善悪の価値観や、権力や財産といった別の要素が2人の間で障害となり、結果的に引き裂いてしまうのです。

 ててなし子の物語は、アメリカ映画の王道じゃないでしょうか?夭折した名優ジェームス・ディーンの代表作『エデンの東』もそんな“ててなし映画”の1つに数えたいですね。

『エデンの東』(1955年製作、エリア・カザン監督)。素直で正しい兄アロンと常に比較される弟キャル。彼は父親の愛をつかみたいためにあがく。ある日、死んだと言われていた母親が実は生きていることを知る。娼館を営む彼女にキャルは会って「金を貸してほしい」と頼む。父親が商売で損した金額を、近く起きる第2次大戦で値上がりするに違いない大豆の取引で取りかえそうというのだ。案の定ぼろ儲けしたキャルは、父親にその金を誕生プレゼントとして渡す。しかし「戦争で儲けた金は受け取れない」と拒否する父。そんな父に、キャルははずみで残酷な復讐を思い立つ――。清教徒的“善”の価値観に凝り固まった父と、それに縛られない愛を求める父子のすれ違い劇は今観ても痛切だ。ちなみに原作はスタインベック。原作に忠実に撮影されたテレビ版が存在し、こちらは確かサム・ブリッジスが主演(ジェフの方だったかな?)。個人的にはこっちの方が面白かった

 主人公キャルがなんとか父親に振り向いてもらいたいために貯えた金。それを父親は受け取ろうとしません。「徴兵委員会を務める私が、戦争を利用して儲けた金を受け取るわけにはいかない」と。

 「待てよ、そんなことより息子の愛をまず受け取れよ、理屈はその後にしろよ」とこっちが思ってもあきません。倫理や道徳に縛られ、妻さえもその正しさで縛り付けようとした父に、優先すべきは気持ちや思いではなく、何より価値観なんですね。それに準じた長男は自らの婚約というプレゼントを父に渡し、父に「そんな金よりお前の婚約の方が嬉しいプレゼントだ」と言わせしめるわけです。

 そのときのキャルの苦しみは筆舌に尽くしがたい。なんでアメリカ映画の父親はこうも息子の気持ちをうまく受け取れないんだろう?そして息子は父親を求めるのだろう。

 『スター・ウオーズ』ですらててなし映画です。『ジェダイの復讐』では、主人公ルーク・スカイウオーカーが、バーン!実は父だったダースベイダーと戦いすらします(そして最後に助けを求め、救おうとする)。

『スター・ウオーズ~ジェダイの復讐』(1983年製作、ジョージ・ルーカス製作総指揮)。スター・ウオーズシリーズの実は完結編。帝国軍が反乱軍を結局制圧してしまう結末はかなり暗いかも。問題はやはり主人公ルークと、悪役ダースベイダーが実は父子だったこと、そしてその対決だろう。戦いながらも、最終的に助けを求める息子に救いの手を延べる父。派手な特撮に隠されたこれまたファザコン映画

 父親が登場しないててなし映画もあります。例えば、おすぎが絶賛して日本でも大ヒットした映画『フィールド・オブ・ドリームス』。平凡な人生を終えた父親を軽蔑しながら、しかしその父親の夢をかなえようと憑かれた男の物語です(ちなみに主人公が父親の幻影とキャッチボールしてこの映画は終わります)。

『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年製作、フィル・アルデン・ロビンソン監督)。「それを作れば彼が来る」という声を聞き、自らの農場を野球場に作り替え、ひたすら来るはずの彼を待つ主人公。現れたのは亡き父の幻影だった――。最後に父親と息子のあるはずのないキャッチボールで終わる大人のファンタジー。当時大絶賛され、大ヒットしたが、すんません、個人的にはのれなかった。同じケビン・コスナー主演の野球映画なら『さよならゲーム』の方が好きです


 『ガープの世界』は、最後から最後まで父親の姿は登場しませんが、最初から最後まで父と一緒になろうとする主人公の姿が描かれます。

『ガープの世界』(1982年製作/ジョージ・ロイ・ヒル監督)。身体の動かぬ空軍パイロットの上にまたがった看護婦の母から生まれたガープの一生を描く――なんて言うとグロテスクに思うかも知れないがとんでもない。誕生から初恋、結婚、出産、子育て、不倫、同性愛、強姦、子供の死、暗殺、自らの死まで、人生のすべてを、優しく、暖かく描いている。母親役のグレン・クローズ、同性愛者を演じたジョン・リスゴー、主人公ロビン・ウィリアムスらの出世作。同じ監督が自費を遣って製作し、カンヌ映画祭グランプリを受賞した『スローターハウス5』と同じく、「人生、そう悪くない」というオプティミズムが心地よい。そして、この映画でも、オープニングからラストシーンまで覆い尽くすのは、空飛ぶ兵士であった(1度も姿を見せぬ)父の影なのだ。傑作!

 究極のててなし映画は、私が見た中では『マジックボーイ』ですね。

『マジックボーイ』(1982年製作、製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ)。主演はライアン・オニールの息子グリフィン。偉大な魔術師だった父に同化しようとする少年ダニーはひょんなことから市長の秘密帳簿を手に入れる。それは、市長のどら息子(『アダムス・ファミリー』の父親役ラウル・ジュリア)が仲の悪い父親への嫌がらせとして黙って持ち出したものだった。父親になりたいダニーと父親に反発するどら息子との争いの背景に常にある父親の姿がなんとも切ない。逆光を利用したやたら暗い画面もいいし、フランソワ・トリュフォーの映画も手掛けた作曲家ジョルジュ・ドルリューのBGMも美しい。評価されているのを見たことはないが、個人的には大好きな映画

 政治家の父に逆らうどら息子が、その父から奪った機密資料を奪われてしまう。奪ったのは、偉大なマジシャンだった父の影を追う少年。つまり、ファザコン少年VSファザコン青年なんですね。製作総指揮は、珍しく父と息子の和解を描いた『ゴッドファーザー』のフランシス・フォード・コッポラ。なるほど、なっとくのファザコンぶりです。

 中学生のとき観たドキュメントで、俳優のピーター・フォンダが父親のヘンリー・フォンダにいかにして『愛してる』と打ち明けたかを追い掛けた番組がありました。御存じかも知れませんが、ヘンリーの浮気に悩んで母が自殺したことから、ピーター(および娘のジェーン)と父ヘンリーの間には長年の確執があったんです。その反抗の証が、ハリウッドから離れて作った映画『イージー☆ライダー』(何がいいんだか、今見るとさっぱりわかりませんが)だったわけです。

 私はアメリカ人じゃないし、アメリカに住んだこともない。しかし、映画で見る限り、どうも米国人は常に父親に飢えているように見える。どうなんでしょう?

いいなと思ったら応援しよう!